山脈
爺さんと出会ってから、数か月が過ぎた。
その間、俺たちはほとんど毎日、魔法の修練と遺跡の調査を続けた。
朝は魔法。
昼は遺跡。
夜になれば焚き火を囲んで古代語を習う。
そんな生活にも、いつの間にかすっかり慣れていた。
俺は相変わらず魔力が強すぎるらしく、爺さんからは威力よりも制御ばかり叩き込まれた。
砂粒を一つだけ動かす。
指先ほどの火を出す。
水滴を一つ浮かべる。
最初の頃なら退屈に思っただろうが、今なら爺さんがなぜそんな修練ばかりさせたのか分かる。
強い魔法を放つだけなら簡単なのだ。
必要なだけの力を、必要な場所へ使う。
そちらの方がずっと難しい。
ラディは俺ほど魔力そのものは多くなかったが、制御については俺より上手かった。
特に風とは相性がいいらしい。
葉を一枚だけ宙へ浮かべ、そのままくるくる回して遊んでいることもある。
そんなラディを見ていると少し悔しい。
けれど、俺たちはいつまでもここにいるつもりではなかった。
旅の途中なのだ。
ある日の夜、俺たちは爺さんに別れを告げた。
「そろそろ行こうと思う」
「どこへじゃ?」
「北」
「ほう」
爺さんはそれだけ言うと、焚き火へ枝を放り込んだ。
「北には何があるの?」
ラディが聞く。
「知らん」
「知らないの?」
「だから行くんじゃろうが」
俺は思わず笑った。
確かにそうだった。
海へ行った時も。
浮島へ行った時も。
俺たちは、知らないからこそそこへ行った。
こうして俺たちは、数か月を過ごした砂漠を離れることになった。
◇ ◇ ◇
砂漠を抜け、北へ進むこと十数日。
最初にそれが見えた時、俺たちは馬を止めた。
「……でかいな」
遥か彼方。
地平線の向こうに、白い壁のようなものが連なっていた。
山脈だった。
一つや二つの山ではない。
東から西まで、見渡す限り山々が続いている。
頂は真っ白な雪に覆われ、そのさらに上には厚い雲がかかっていた。
近づけば近づくほど、その巨大さが分かってくる。
「あれ越えるの?」
ラディが尋ねた。
「道があればな」
幸い、山麓には小さな村があった。
山脈を越えて南北を行き来する交易路の宿場になっているらしく、村の規模に比べて宿屋と厩が多い。
そこで山の向こうへ行きたいと話すと、村人は意外そうな顔もしなかった。
「今なら越えられるぞ」
「今なら?」
「夏だからな。秋の終わりから春までは無理だ。雪で峠が閉じる」
どうやら運がよかったらしい。
しかも数日後、山の向こうへ向かう交易隊が出るという。
山を知らない旅人だけで峠へ入るのは危険なので、俺たちも同行させてもらうことにした。
出発までの数日間は村で過ごした。
そこでラディが見つけたのが、この地方で作られているチーズだった。
市場を歩いているだけで分かった。
臭い。
ものすごく臭い。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「なんか臭くない?」
「俺も今それを言おうと思ってた」
臭いの元は、店先に並べられた黄色っぽい塊だった。
山羊の乳から作る熟成チーズらしい。
店の親父はうまそうに一切れ切り取った。
「食ってみるか?」
俺とラディは顔を見合わせた。
臭い。
だが。
「……食べます」
知らないものは食べてみたい。
薄く切ったチーズを口へ入れる。
「……」
「……」
臭い。
やっぱり臭い。
ところが噛んでいると、妙に濃厚な旨味が広がってきた。
塩気も強い。
黒パンと一緒ならかなりうまそうだ。
「兄ちゃん」
「ん?」
「もう一個食べていい?」
「気に入ったのかよ」
結局、山越え用に一塊買った。
数日後。
交易隊とともに村を出発した。
人間が十数人。
荷物を積んだラバが二十頭近く。
山脈の向こうから塩や毛皮を運び、南からは穀物、酒、陶器などを持っていくらしい。
最初の二日ほどは楽だった。
道はまだ広く、周囲には木々も生えている。
ところが高度が上がるにつれ、景色が変わった。
木が減る。
道が細くなる。
空気も冷たくなる。
そして何より、坂がきつい。
俺たちも途中から馬を降りた。
乗っている方が危ない。
右側には岩壁。
左側には崖。
下を見ると、遥か下に川が見えた。
「ラディ、端に寄るなよ」
「分かってるよ」
「浮島でも同じこと言ってたよな」
「今回は覗かないよ」
さすがに今回は本人も怖いらしい。
ところが事故は起きた。
前を歩いていたラバが突然足を滑らせた。
蹄が石を弾く。
ガラガラッ。
「あっ!」
誰かが叫んだ。
ラバの身体が傾いた。
荷物が岩壁へぶつかり、そのまま身体ごと崖へ滑っていく。
隊商の男が手綱を掴もうとした。
届かなかった。
ラバは一度岩へぶつかり、そのまま谷底へ消えた。
しばらくして、遥か下から鈍い音が聞こえた。
誰も喋らなかった。
俺もラディも崖の下を見た。
助かる高さではない。
交易隊の隊長が小さく息を吐いた。
「進むぞ」
それだけだった。
山では珍しいことではないのだろう。
ここまでの旅で、俺たちはずいぶん強くなった。
魔法まで使えるようになった。
それでも、足を一度滑らせれば死ぬ。
山にとっては、俺たちがどれだけ強いかなど関係ないらしい。
さらに高度を上げた日のことだった。
岩場を進んでいると、突然ラバたちが騒ぎ始めた。
「止まれ!」
交易隊の男が叫ぶ。
岩陰から何かが現れた。
四足の魔物だった。
灰白色の長い毛に覆われ、身体は大型の牛ほどもある。
だが頭は狼に近い。
一匹。
二匹。
岩の陰から次々と現れる。
「五匹いる!」
大きな魔法は使えない。
なら。
「ラディ!」
「うん!」
俺は手を前へ出した。
古代文字を頭の中へ描く。
雷。
ただし広げない。
一つへ絞る。
爺さんと何度も練習した。
狙った場所だけへ。
「――っ!」
乾いた音が山肌へ響いた。
青白い閃光が走る。
先頭の魔物が身体を痙攣させ、その場へ崩れた。
残った魔物が一斉に動く。
そこへラディが風を放った。
猛烈な横風が岩肌を吹き抜け、二匹の魔物が体勢を崩す。
「今!」
交易隊の護衛たちが槍を突き出した。
俺も二発目の雷を撃つ。
しばらくして、最後の魔物が逃げていった。
「……できた」
俺は自分の手を見る。
初めてだった。
修練ではない。
遺跡の砂を退けるためでもない。
本当に自分たちの命を守るために魔法を使った。
爺さんがいたら何と言っただろう。
たぶん褒める前に、
「雷を撃つ場所が近すぎるわ、阿呆!」
くらい言われそうだった。
山越えで最も危険だったのは、その数日後だった。
朝から空が曇っていた。
昼過ぎには雪が降り始めた。
最初はちらちらと舞っている程度だった。
だが急激に風が強くなった。
「まずいぞ!」
隊長が叫ぶ。
雪が横から叩きつけてくる。
数十歩先すら見えなくなった。
吹雪だった。
「兄ちゃん!」
「ここにいる!」
ラディの腕を掴む。
交易隊の人間たちも互いに縄で身体を結び始めた。
このままでは進めない。
かといって、その場に留まれば凍える。
その時、山を知る案内人が叫んだ。
「洞窟がある! こっちだ!」
全員で吹雪の中を進んだ。
どれほど歩いたのか分からない。
そしてようやく岩壁の裂け目へ逃げ込んだ。
風が止んだ。
「……助かった」
俺は息を吐いた。
だが奥へ入って、ラディが声を上げた。
「兄ちゃん、見て」
「ん?」
俺も顔を上げた。
洞窟が青かった。
壁。
床。
天井。
すべて氷でできている。
どうやら岩の洞窟ではなく、巨大な氷河の内部にできた空洞らしい。
外から入ってくる僅かな光が分厚い氷を通り、洞窟全体を淡い水色に染めていた。
氷の中には無数の小さな気泡が閉じ込められている。
場所によっては何層もの線が走り、まるで巨大な青い宝石の中へ入り込んだようだった。
「……綺麗だね」
「ああ」
外では吹雪が荒れ狂っている。
それなのに洞窟の中は静かだった。
時折。
ピシッ。
どこかで氷が軋む音だけが聞こえる。
交易隊の人間が火を起こそうとした。
俺も魔法を使おうとして――やめた。
「ここで火の魔法はまずいか」
氷の天井を見上げる。
結局、持っていた薪を小さな火鉢で燃やした。
その夜。
俺とラディは毛布に包まり、例の臭いチーズを黒パンへ挟んで食べた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「このチーズ、ここで食べるとうまい」
「分かる」
疲れて腹が減っていたからかもしれない。
それでも、冷え切った身体で食べる塩気の強いチーズは驚くほどうまかった。
翌朝。
吹雪は止んでいた。
そしてさらに何日も山を進み、ついに峠を越えた。
「見えてきたぞ!」
先頭から声が上がった。
俺とラディも急いで尾根へ登った。
そこで――。
「……うわ」
ラディが立ち尽くした。
山の向こうは、まるで別の世界だった。
森。
どこまでも続く針葉樹林だった。
深い緑色の森が山裾から遥か彼方まで広がっている。
そして、その森の間には無数の湖があった。
不思議なほど鮮やかな水色。
雪山から流れ出した水なのだろう。
日の光を受けた湖面が、青い宝石のように輝いている。
砂漠とは何もかもが違った。
乾いた大地もない。
照りつける日差しもない。
目に入るのは緑と青と、背後にそびえる白い山々。
「兄ちゃん」
「ん?」
「行ってみようよ、あの湖」
「ああ。せっかく来たんだからな」
山を下りた俺たちは、そのまま湖のほとりにある小さな集落へ向かった。
近くまで来てみると、そこは思っていたより賑やかな場所だった。
湖岸には木造の家々が並び、その間を細い水路が縫うように流れている。岸辺には小舟が何艘も引き上げられ、家々の軒先には魚を干すための木枠が立てられていた。
そして何より目についたのは、人の多さだった。
普段なら静かな村なのだろうが、その日は子供も大人も湖の近くへ集まり、網や籠を持って何かの準備をしている。
俺とラディが馬を引きながら村へ入ると、近くにいた男が声をかけてきた。
「旅人か?」
「はい」
「山を越えてきたのか?」
「そうです」
男は背後にそびえる山脈を見てから、感心したように頷いた。
「そりゃ大変だったろう。ちょうどいい日に来たな」
「何かあるんですか?」
ラディがすぐに聞く。
「魚追いだ」
「魚追い?」
「見れば分かる」
男は笑って、湖へ流れ込む川の方を指した。
俺たちは馬を宿へ預けると、そのまま村人たちについていった。
湖から少し離れたところにある川へ着くと、ようやく男の言っていた意味が分かった。
「……すごいな」
川の中が銀色に光っていた。
魚だ。
数十匹や数百匹という数ではない。
見渡す限り、川の中を魚が埋め尽くしている。
大きさは俺の腕ほど。背中は青みがかった銀色で、腹は白い。湖で育った魚が、この季節になると一斉に川を遡るのだという。
「兄ちゃん、魚だらけ」
「本当にすごいな」
「こんなにいるなら手で取れるんじゃない?」
「やってみれば」
ラディは本当に川へ入っていった。
俺も靴を脱ぎ、裾を膝まで捲って後を追う。
水は驚くほど冷たかった。
「冷たっ!」
「山の雪解け水だからな!」
村人たちは川の中へ石を並べ、魚の進路を少しずつ狭めていた。
完全に塞ぐわけではない。
魚の一部はそのまま上流へ行かせ、別の一部だけを浅瀬へ誘導している。
そこへ何人かが籠を沈める。
魚が入る。
持ち上げる。
それを岸へ運ぶ。
単純なように見えた。
だから俺もやってみた。
「兄ちゃん、そっち!」
ラディが叫ぶ。
「分かってる!」
目の前を大きな魚が通る。
籠を沈める。
魚が逃げる。
「……」
もう一匹。
今度こそ。
籠を構える。
魚が横へ曲がる。
また逃げた。
後ろから笑い声が聞こえる。
振り返ると、ラディだった。
「兄ちゃん、下手」
「うるさい」
「僕もう三匹捕まえたよ」
見ると、本当に籠の中で魚が跳ねている。
「なんでそんな上手いんだよ」
「魚見てから動いてるから」
「俺も見てるよ」
「兄ちゃん、力入りすぎなんじゃない?」
悔しい。
一刻ほどかかって、ようやく一匹。
「取った!」
思わず声が出た。
ラディが横から籠を覗く。
「やっと?」
「お前、本当に腹立つな」
「でもよかったね」
「素直に褒めろよ」
周りの村人たちまで笑っていた。
夕方になると、魚追いは終わった。
捕れた魚は村の広場へ運ばれ、その日のうちに料理される。
一部は塩漬け。
一部は燻製。
そして一番新鮮なものは、その場で焼かれた。
湖岸には大きな火がいくつも焚かれ、魚が木の串に刺されてずらりと並んでいる。
腹には香草を詰め、表面には粗い岩塩が振られていた。
俺たちも一匹ずつもらった。
「熱っ」
ラディが魚へ齧りつく。
「慌てるからだよ」
そう言いながら、俺も一口食べる。
皮はぱりぱり。
中の身は柔らかい。
山を越えたばかりの冷たい土地だからだろうか。かなり脂が乗っていた。
塩気と香草の香りもよく合う。
「……うまいな」
「でしょ」
「お前が作ったわけじゃないだろ」
ラディはもう半分くらい食べている。
「兄ちゃん、もう一匹食べてもいい?」
「早いよ」
「でもいっぱいあるよ」
「食いすぎて腹壊すなよ」
「大丈夫」
絶対に大丈夫ではない。
と思ったが、俺も結局二匹食べた。
さらに村人から、魚卵を塩漬けにしたものも勧められた。
小さな赤い粒が木皿へ盛られている。
黒パンへ乗せて食べるらしい。
「これも魚?」
「卵だって」
ラディが一口食べる。
「しょっぱい」
俺も食べる。
確かに塩気は強い。
だが、噛むとぷちぷちと弾けて独特の旨味が広がった。
保存食として冬まで食べるのだという。
砂漠で食べたものとは何もかも違う。
それだけで面白かった。
祭りのような賑わいが少し落ち着いた頃。
日もすっかり沈んだ。
俺とラディは宿へ戻る前に、湖岸を少し歩くことにした。
昼間は水色だった湖も、夜になると黒く沈んでいる。
風もほとんどなく、湖面は鏡のように静かだった。
「兄ちゃん」
ラディが足を止めた。
「どうした?」
「水、光ってない?」
「え?」
よく見る。
確かに。
波打ち際が僅かに青白く光っていた。
最初は月の反射かと思ったが違う。
水そのものが光っている。
ラディがしゃがみ込み、そっと手を入れた。
ばしゃ。
指先で水を掻く。
すると。
「うわっ!」
無数の光の粒が舞い上がった。
青。
白。
僅かに緑がかったものもある。
まるで星を水の中へ撒いたようだった。
「兄ちゃん、見て!」
「見てる」
俺も水へ手を入れる。
軽く動かす。
そのたびに光の筋が生まれる。
「なんだこれ」
「昼はいなかったよね」
「いたけど光ってなかったのかもな」
後で村人に聞くと、湖に棲むごく小さな藻の一種らしい。
夏の終わりになると夜だけ淡く光るのだという。
俺とラディはしばらく、何も言わずに水を掻いて遊んだ。
歩けば足元が光る。
石を投げれば、落ちたところから青白い輪が広がる。
波が岸へ寄せるたび、湖岸全体が薄く光った。
「海でもこんなのなかったね」
ラディが言う。
「ああ」
浮島では空を魚が泳いでいた。
ここでは湖が光っている。
本当に、行く先々で変なものばかり見つかる。
けれど俺は、そういうものを見るために旅をしているのだと思う。
翌朝。
何か騒がしい声で目を覚ました。
外へ出ると、村人たちが空を見上げている。
俺もつられて顔を上げた。
「……すごい」
空が鳥で埋まっていた。
白い鳥。
何百。
いや、何千羽いるのか分からない。
翼の長い大型の水鳥が、湖の上を何度も旋回している。
群れが向きを変えるたび、朝日に照らされた白い翼が一斉に光った。
ラディも宿から出てきた。
「兄ちゃん、何これ」
「渡り鳥じゃないか?」
やがて鳥たちは少しずつ高度を上げ始めた。
一つの巨大な群れとなり、南へ向かって飛んでいく。
その様子を見ていた村の老人が言った。
「そろそろだな」
「何がです?」
俺が尋ねる。
老人は南へ飛んでいく鳥を見ながら答えた。
「冬だ」
「まだ夏ですよね?」
「ここじゃ夏は短い」
老人は笑った。
「あいつらが南へ飛び始めたら、二十日もせずに初雪が降る。ひと月もすれば、この辺りでも朝は凍る」
俺とラディは顔を見合わせた。
背後には、ようやく越えてきた大山脈。
あそこが雪で閉ざされるのも、そう遠くはないらしい。
「旅を続けるなら、そろそろ動いた方がいいぞ」
「どっちへ行くのがいいですか?」
老人は少し考えた。
「西ならまだ暖かい。湖と川に沿って進めば、大きな海へ出る」
「海?」
ラディが反応する。
「そうだ。その海の向こうには、エルフどもの国もある」
「エルフ?」
ラディの声が一段上がった。
老人が笑った。
「耳の長い連中だ。人間とは違う国を作って暮らしとる」
俺はラディを見る。
もう分かる。
この顔。
「兄ちゃん」
「言わなくても分かるよ」
「行きたい」
「だろうな」
もっとも。
俺も興味があった。
海そのものはもう見た。
だが、その海の向こうにあるというエルフの国は見たことがない。
人間とは何が違うのか。
どんな町に住むのか。
どんな料理を食べるのか。
魔法は使うのか。
考え始めれば、行きたくなる。
「じゃあ西だな」
「うん!」
空を見る。
渡り鳥の群れは、すでにずいぶん遠くまで飛んでいた。
季節が俺たちの背中を押しているようだった。
数日後。
俺たちは湖畔の村を後にした。
夜に光る湖。
銀色の魚。
南へ飛んでいく無数の渡り鳥。
また一つ、忘れたくない場所が増えた。
そして今度は西へ。
海を越え、その先にあるというエルフの国を目指して。




