エルフ語
俺たちは西へ向かうことにした。
湖畔の村を出てから、ひたすら西へ進んだ。
初めのうちは針葉樹の森がどこまでも続いていたが、何日も進むうちに少しずつ景色が変わっていった。
背の高い針葉樹が減り、代わりに広葉樹が目立つようになる。
さらに西へ進むにつれて、空気から山特有の冷たさが消えていった。
冬が近づいているはずなのに、むしろ暖かくなっている。
どうやら海に近づいているらしい。
そして、湖畔の村を出て二十日あまり。
丘の上へ出たところで、ラディが馬を止めた。
「兄ちゃん!」
「ん?」
「あれ!」
ラディが指差す。
俺もそちらを見る。
地平線まで続く青。
海だった。
「……また海か」
「またって何だよ。海だよ!」
ラディは嬉しそうだった。
最初に海を見た時のことを思い出しているのかもしれない。
俺だって少し懐かしかった。
考えてみれば、あの海へ行こうと言ったことから、すべてが始まったのだ。
浮島へ行き。
砂漠で爺さんと出会い。
大山脈を越えた。
ずいぶん遠くまで来たものだ。
「行こうぜ」
「うん!」
俺たちは海へ向かって馬を進めた。
海岸へ出てからは、そのまま南へ向かった。
湖畔の村で聞いた話によれば、この辺りでエルフの国へ渡ろうとするなら、南にある大きな港町へ行くのが一番いいらしい。
そこは昔から海の向こうのエルフたちと交易をしており、毎月何隻もの船が海峡を往来しているという。
三日ほど海岸沿いの街道を進むと、その町が見えてきた。
最初に見えたのは帆柱だった。
一本。
二本。
いや、そんなものではない。
森のように何十本もの帆柱が町の向こうから突き出している。
「兄ちゃん、船いっぱいある」
「みたいだな」
町へ入ると、さらに驚いた。
大きい。
以前訪れた港町もかなり栄えていたが、ここはそれ以上だった。
街道には荷馬車がひっきりなしに行き交い、港に近づくにつれて巨大な倉庫が増えていく。
聞いたことのない言葉もあちらこちらから聞こえてきた。
そして。
「兄ちゃん」
「分かってる」
ラディが俺の袖を引いた。
人混みの中に、明らかに人間とは違う者がいた。
細身の身体。
淡い金髪。
そして髪の間から覗く、細長く尖った耳。
エルフだ。
一人ではない。
港へ近づくほど、その姿が増えていった。
服装も人間とは少し違った。
薄い布を何枚も重ね、身体へ巻きつけるような服を着ている者が多い。色は白色だ。
港にはエルフの商船まで停泊していた。
俺たちは宿を取ると、早速エルフの国へ向かう船を探すことにした。
ところが、すぐに問題が起きた。
「馬二頭もですか?」
船宿の男が嫌そうな顔をする。
「はい」
「人だけなら明後日の船があるんだがなあ」
「馬は駄目なんですか?」
「駄目じゃない。ただ、客船じゃ無理だ。貨物船を探さないと」
俺とラディは顔を見合わせた。
馬を置いていくつもりはない。
ここまで一緒に旅をしてきた馬だ。
「貨物船ならどこで探せます?」
「港の商館を回ってみるしかないな」
仕方ない。
俺たちは港へ向かった。
その途中だった。
町の西門近くを歩いていると、妙に騒がしいことに気づいた。
人々が街道の先を見ている。
その向こうから、一頭の馬が走ってきた。
鞍には誰も乗っていない。
荷馬車用の馬だったらしく、切れた革紐を引きずっている。
「なんだ?」
直後。
街道の向こうから男が走ってきた。
「魔物だ!」
その一言で、周囲がざわついた。
「街道に魔物が出た! 荷馬車が襲われてる!」
俺とラディは顔を見合わせた。
「兄ちゃん」
「ああ」
考えるより先に動いていた。
俺たちは馬へ跨った。
「どこです!」
「西の倉庫へ行く道だ! ここから半里くらい――」
最後まで聞かず、馬を走らせた。
すぐに見つかった。
街道から少し外れた場所で、一台の荷馬車が横倒しになっていた。
木箱が地面へ散乱している。
そのうちいくつかは壊れ、中から見たことのない赤い果実が転がり出していた。
甘い香りが辺り一面に漂っている。
そして、その匂いの中に巨大な魔物がいた。
セイウチのような海獣だった。
だが、あまりにも大きい。
身体は黒色の毛に覆われ、口からは二本の牙が大きく突き出していた。
その牙の先には血が付いている。
「でかいな」
俺は馬から飛び降りた。
「兄ちゃん、あそこ!」
ラディが指差す。
荷馬車の反対側に人がいた。
五人。
いや、六人か。
エルフだ。
二人の護衛らしい男が剣を構え、その後ろに商人らしき者たちがいる。
その中に若い女のエルフもいた。
そして一人の護衛が負傷していた。
脚から血を流している。
もう一人が必死に魔物を牽制していた。
「――――!」
俺たちに気づいたエルフが何か叫んだ。
「兄ちゃん、何言ってるの?」
「分からん!」
もう一度叫ぶ。
手を振っている。
たぶん。
「でも逃げろって言ってるのは分かる!」
「どうする?」
俺は弓を取り出した。
「助ける」
それで十分だった。
矢をつがえる。
引く。
放つ。
矢は魔物の首へ突き刺さった。
「――ッ!」
魔物がこちらを向いた。
「こっちだ!」
言葉が通じるはずもない魔物へ叫ぶ。
狙い通り、こちらへ向かってきた。
「ラディ!」
「うん!」
ラディが剣を抜く。
魔物が地面を蹴った。
速い。
巨体からは想像できない勢いで突っ込んでくる。
俺は横へ飛んだ。
直後。
さっきまで俺がいた場所を巨大な牙が通り過ぎる。
「危なっ」
すぐに二本目。
目を狙う。
だが魔物が頭を振ったため、矢は頬へ刺さった。
それでも十分だ。
怒った魔物の注意は完全に俺へ向いている。
その間にラディが側面へ回り込む。
剣を振る。
ガッ。
「硬い!」
毛の下に分厚い皮があるらしい。
浅い。
魔物が身体を振り回した。
「ラディ!」
「大丈夫!」
ラディが飛び退く。
さて。
どうするか。
もっと矢を撃ち込んでもいい。
だが、負傷したエルフが近くにいる。
魔物を長く暴れさせる方が危険だ。
「ラディ!」
「何!」
「止めるぞ!」
それだけで伝わった。
ラディが距離を取る。
俺は魔力を練った。
古代文字を組む。
雷。
広げない。
一点だけ。
魔物が再びこちらへ突進する。
引きつける。
まだ。
まだ。
「今!」
青白い光が走った。
バチンッ!
乾いた音。
雷が魔物の肩から全身へ走る。
巨体がびくりと震えた。
脚が止まる。
その瞬間。
ラディが走った。
「はあっ!」
剣を両手で握り、魔物の横を抜ける。
刃が首へ深く食い込んだ。
血が噴き出す。
それでも倒れない。
ラディがもう一度踏み込む。
二撃目。
今度は深かった。
魔物の巨体がぐらりと傾く。
そして。
ズン。
地面へ倒れた。
しばらく待つ。
動かない。
「……終わった?」
「ああ」
俺は弓を下ろした。
ラディが剣についた血を払う。
そこで視線を感じた。
振り返る。
エルフたちが俺たちを見ていた。
全員。
呆然としている。
「……」
「……」
俺とラディは顔を見合わせた。
「なんだ?」
「知らない」
どうやら俺たちにとっての「ちょっと強い」と、彼らの感覚にはかなり差があったらしい。
まずは負傷者だった。
俺たちも手伝って傷口を縛り、町へ戻る準備をする。
するとエルフたちの中で最も年上らしい男が俺のところへやってきた。
五十歳くらいだろうか。
もっとも、エルフの年齢など分からない。
「――――」
「……すみません。分からないです」
男が困った顔をする。
しばらく考えてから、
「あなた……」
人間の言葉だった。
「え?」
「あなた、強い」
随分片言だ。
「ありがとうございます」
通じたのか分からない。
男は自分を指差し、それから俺とラディを指した。
「助ける。感謝」
「ああ」
言いたいことは分かった。
「怪我した人、大丈夫ですか?」
「……?」
やっぱり通じない。
俺は負傷者を指差して、
「大丈夫?」
と言う。
ようやく理解したらしい。
「大丈夫。死ぬ、ない」
「よかった」
それから、どうにか身振り手振りを交えて話した。
彼らは海の向こうから来たエルフの商人だった。
年長の男が商会の主人。
そして。
「娘」
男が若い女のエルフを指した。
女が軽く頭を下げる。
どうやら親子らしい。
彼らは定期的にこの港へやって来て、香料や果実、織物などを売り、人間の国から金属製品や毛織物などを買って帰るという。
今回も荷物を町外れの倉庫へ運んでいたところ、果実の匂いにつられた魔物に襲われたらしい。
そこで俺は、ふと思い出した。
「そうだ」
男を見る。
「俺たち、エルフの国へ行きたいんです」
「……?」
当然通じない。
「兄ちゃん、無理だよ」
「待て」
海を指差す。
それからエルフたちを指差す。
さらに俺とラディを指して、海の向こうを示す。
「俺たち。エルフの国。行きたい」
男が眉を寄せる。
やがて。
「ああ!」
理解したらしい。
「我ら、国?」
「そう!」
「行く?」
「行きたい!」
男が笑った。
そして港の方を指差す。
「我ら、帰る。船、ある」
「船?」
「船。私」
「持ってるんですか?」
そこまでは通じなかった。
だが、どうやら彼らの商会が使っている船があるらしい。
これなら行ける。
しかし。
「兄ちゃん」
ラディが俺たちの馬を見る。
「あ」
そうだった。
俺は二頭を指差す。
「馬も」
男を見る。
「……馬?」
「はい」
「二?」
「二頭」
指を二本立てる。
男は馬を見る。
俺たちを見る。
また馬を見る。
しばらく考えていたが。
「……よい」
「本当ですか?」
「よい」
やった。
俺とラディは顔を見合わせた。
「行けるぞ」
「うん!」
思わぬところで、船まで見つかった。
数日後。
俺たちは二頭の馬とともに、エルフの商船へ乗り込んだ。
貨物船なので、馬を置く場所も用意できた。
出港すると、人間の町が少しずつ遠ざかっていく。
そして船上では、早速言葉の問題にぶつかった。
「――――――」
「……」
「――――?」
「……ラディ」
「何?」
「分かる?」
「全然」
「だよな」
食事を頼むだけでも一苦労。
水が欲しければ桶を指差す。
馬の餌について尋ねようとしても、身振り手振り。
商会の主人だけは僅かに人間語を話せたが、それでも込み入った話になるとまるで通じなかった。
その娘に至っては、人間語をほとんど知らない。
何度か話しかけられたが、
「……?」
となる。
向こうも、
「……?」
となる。
最後にはお互い笑うしかなかった。
数日の船旅を終え、俺たちは初めてエルフの国へ降り立った。
港へ近づくにつれ、人間の国との違いが少しずつ見えてくる。
まず建物が違った。
白い石で造られた建物が多く、屋根は人間の町で見るものより平たい。窓は細長く、その周囲には蔓草や花を模した細かな彫刻が施されている。
港には大小様々な船が停泊していた。
船から荷を下ろす者。
荷車へ積み込む者。
値段を交渉する商人。
人間の港町とやっていること自体は大して変わらない。
だが、聞こえてくる言葉がまるで分からなかった。
「――――――!」
「――――、――――!」
右からも左からも、聞き慣れない言葉が飛び交っている。
「兄ちゃん」
「なんだ?」
「全然分からない」
「俺もだよ」
船旅の間にも何度か言葉を教えてもらった。
挨拶。
水。
食事。
ありがとう。
その程度なら覚えた。
だが、港で飛び交っている会話は速すぎる。
何を言っているのかさっぱりだった。
文字も違う。
倉庫の壁。
店の看板。
積荷につけられた札。
どれも見慣れない文字で書かれている。
俺たちが港を眺めていると、ここまで船に乗せてくれた商会の主人がやってきた。
何か言う。
「――――――」
「……?」
俺とラディが揃って首を傾げる。
主人も困った顔をした。
「……来る」
片言の人間語だった。
自分を指差す。
それから俺たちを指差し、港の向こうを示した。
「一緒?」
「はい」
「行く」
「分かりました」
たぶんついてこいという意味だろう。
俺たちは馬を連れ、主人についていった。
商会は港から少し離れた場所にあった。
かなり大きい。
通りに面して三階建ての商館があり、その裏にはいくつもの倉庫が並んでいる。
中庭には荷車が何台も停まり、大勢のエルフが忙しそうに荷物を運んでいた。
香辛料。
果物。
織物。
陶器。
金属製品。
見覚えのあるものもあれば、何に使うのか分からないものもある。
俺たちが中へ入ると、一人のエルフが呼ばれてきた。
四十歳くらいに見える男だった。
もっとも、エルフの年齢など見た目で分かるのか怪しい。
男は俺たちを見ると、
「初めまして」
流暢な人間語で言った。
「おお……」
思わず声が出た。
ラディも目を丸くしている。
「兄ちゃん、この人普通に喋れる」
「聞こえておりますよ」
「あ」
男が笑った。
「私はこの商会で書記と通訳をしております。人間の国との取引も多いものですから」
「助かった……」
心からそう思った。
ようやくまともに話ができる。
商会の主人が何かを言う。
書記が訳した。
「主人からです。あなた方には、我々の命を救っていただいた。改めて礼を申し上げたい、と」
「いや、たまたま通りかかっただけですから」
俺が答えると、それも訳される。
主人が首を横へ振った。
「それでも、助けられたことに変わりはないそうです」
それからしばらく話をした。
俺たちが特に目的を決めず旅をしていること。
エルフの国を見て回りたいこと。
だが言葉がまったく分からないこと。
すると主人が何かを言った。
書記が少し驚いたように主人を見る。
それから俺たちへ向き直った。
「これから冬になります」
「はい」
「この地方では冬に長旅をする者は多くありません。特にあなた方は土地勘もありませんから」
それは俺たちも考えていた。
雪山を越えてきたばかりだ。
冬の旅がどれほど危険かは分かっている。
「そこで主人から提案です」
「なんでしょう?」
「春まで、この商館に滞在してはどうかと」
俺はラディを見る。
ラディも俺を見る。
「いいんですか?」
「もちろんです。それと――」
書記が苦笑する。
「冬の間、私があなた方に我々の言葉を教えるよう申しつけられました」
「あなたが?」
「ええ」
願ってもない話だった。
こうして俺たちは旅を一時中断し、エルフの国で冬を越すことになった。
翌日から早速、勉強が始まった。
最初に習ったのは挨拶だった。
「もう一度」
書記が発音する。
俺とラディが続く。
「違います」
「今のどこが違った?」
「最後です」
「同じに聞こえるけど」
「まったく違います」
厳しい。
ラディが横で同じ言葉を口にした。
書記が頷く。
「ラディは上手ですね」
「え?」
俺は弟を見る。
「お前、今の分かったの?」
「うん。最後ちょっと違うじゃん」
「どこが?」
「こう」
もう一度発音する。
分からん。
俺には同じにしか聞こえない。
どうやらラディは耳で言葉を覚えるのが得意らしい。
一方で俺は、文字の方が覚えやすかった。
ある日、書記が石板へ文字を書く。
「これは『風』です」
「……ん?」
俺はその文字を見つめた。
どこかで見たことがある。
「どうしました?」
「これ……古代語の文字に似てません?」
「古代語?」
俺は爺さんから教わった古代文字を、その横へ書いた。
風を意味する文字。
二つを並べる。
同じではない。
だが、線の組み方に明らかな共通点があった。
書記の顔つきが変わった。
「あなた、古代文字が読めるのですか?」
「少しだけです」
「どこで習ったのです?」
「砂漠で会った爺さんから」
「……砂漠で?」
「耳の遠い変な爺さんです」
「兄ちゃん」
ラディが横から言う。
「爺ちゃん、すごい魔法使いだったじゃん」
「それはそうだけど」
書記は俺たちの会話を半ば聞き流しながら、二つの文字を見比べていた。
やがて言った。
「似ているのは当然ですよ」
「え?」
「我々が現在使っている文字の祖先は、古代文字だと言われています」
「そうなのか?」
これは面白かった。
古代文明は滅びた。
爺さんからそう教わった。
けれど、何もかもが消えたわけではない。
言葉が変わり。
文字が変わり。
何千年もの時間を経て、それでも今の人々の中に残っている。
それを知ってから、俺の読み書きは一気に楽になった。
ラディは耳から覚える。
俺は文字から覚える。
一か月も経つ頃には、簡単な日常会話ならどうにかできるようになっていた。
そして冬至が近づいた頃。
町の雰囲気が急に変わった。
家々の軒先へ常緑樹の枝が飾られ、窓辺には小さな灯火が置かれるようになった。
市場には木の実や蜂蜜を使った菓子が並ぶ。
「祭りでもあるのか?」
俺が聞くと、書記が教えてくれた。
「冬至祭ですよ」
「冬至?」
「一年で最も夜が長い日です。その日を境に、再び昼が長くなっていくでしょう?」
「ああ」
「だから我々は、光が戻り始める日として祝うのです」
なるほど。
冬至の日。
俺たちも商会の者たちと一緒に町へ出た。
日が沈むと、町中の灯りが一度消された。
真っ暗になる。
「兄ちゃん」
「いるよ」
「何も見えない」
「俺もだ」
やがて町の中央広場で、一つの灯火が点された。
その火から次の灯火へ。
また次へ。
広場から通りへ。
通りから家々へ。
一つだった光が少しずつ町中へ広がっていく。
やがて町全体が無数の小さな灯火に包まれた。
「……綺麗だね」
「ああ」
広場では音楽が始まった。
笛。
弦楽器。
太鼓。
人々が輪になって踊り始める。
「行こうよ」
「俺、踊り知らないぞ」
「僕も知らない」
「じゃあなんで行くんだよ」
「見て真似すればいいじゃん」
結局、俺も引っ張り込まれた。
最初は足を踏みそうになった。
だが、周囲の動きを見ながらやっているうちに、何となく分かってくる。
途中からはどうでもよくなった。
踊って。
食べて。
酒を少し飲んで。
ラディは蜂蜜と木の実を固めた菓子を気に入り、何個も食べていた。
「食いすぎるなよ」
「今日祭りだよ?」
「祭りなら腹壊さないのか?」
「……もう一個だけ」
絶対もう一個では終わらない。
けれど俺も止めなかった。
旅を始めてから、いろいろな土地の祭りを見てきた。
収穫祭。
魚追い祭り。
そして今度はエルフの冬至祭。
土地が違えば、食べ物も言葉も神様も違う。
それでも祭りの日に人が集まって、食べて、飲んで、踊るのはどこも同じらしい。
冬が深くなる頃には、俺たちも商会でただ世話になるだけではなくなった。
「何か手伝えることないですか?」
そう尋ねたのが始まりだった。
最初に任されたのは倉庫の整理だった。
人間の国から届いた毛織物。
北方から届いた毛皮。
南から来た香辛料。
それぞれを帳簿と照らし合わせ、決められた倉庫へ運ぶ。
「ラディ、そっち何箱?」
「十二!」
「帳簿には十一って書いてあるぞ」
「じゃあ一個多い」
「そんなわけあるか」
調べてみる。
一箱だけ別の商会宛てだった。
「危なっ」
「兄ちゃんが気づかなかったら持っていってたね」
そんなことを繰り返しているうちに、自然と商売で使う言葉も覚えていった。
値段。
数量。
重さ。
産地。
税。
貸し。
借り。
旅をするだけなら知らなくても困らない言葉ばかりだ。
だが覚えてみると、意外に面白かった。
商品を見るだけで、どこから来たものなのかが分かる。
「これ、人間の国の布だ」
俺が荷札を見ながら言う。
「そうですね」
書記が頷いた。
「あなた方が来た港より、さらに南から運ばれてきたものです」
「そんな遠くから?」
「商売とはそういうものですよ」
書記は笑った。
「品物は、人より遠く旅をすることがあります」
その言葉が妙に印象に残った。
ある日のことだった。
倉庫の奥を整理していると、古びた木箱が出てきた。
「これ何?」
ラディが埃を払う。
「知らん。開けてみるか?」
勝手に開けるわけにもいかないので、書記を呼んだ。
「ああ、それですか」
書記は懐かしそうに箱を見る。
「昔の帳簿ですよ。先々代の頃のものだったと思います」
「見てもいいですか?」
「構いませんよ。どうせ今は使っていませんから」
中には古い帳簿や手紙がぎっしり入っていた。
羊皮紙。
木札。
地図。
俺とラディは暇を見つけて、それらを読むようになった。
語学の勉強にもなる。
昔のエルフ語は今とは少し違う。
しかも商人が使う独特の言い回しまである。
書記に聞きながら一枚ずつ読んでいく。
その中で、一枚の地図を見つけた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「これ何?」
ラディが広げた地図を見る。
海岸線が描かれ、その内側にはいくつもの町や街道が記されている。
さらに西の大きな森を越えた先に、妙な印があった。
山のようにも見える。
だが山脈ではない。
その周囲には古いエルフ語で何か書かれていた。
「……読める?」
ラディが聞く。
「待て」
俺は文字を追った。
古い言葉だ。
何度か読み直す。
「『石の……森』?」
「石の森?」
書記に尋ねる。
すると彼は地図を覗き込み、少し驚いた。
「随分古い地図を見つけましたね」
「ここ、何があるんです?」
書記は指で地図をなぞった。
「石柱群です」
「石柱?」
「ええ。西の大森林を越えたところに、巨大な石柱が何千本も立っている土地があります」
ラディの目が輝いた。
嫌な予感がする。
「自然にできたものですか?」
「そう言われています。ただ――」
書記が地図の文字を指した。
「昔の人々は、そこを神々が造った森だと考えていたようですね」
「何千本も?」
ラディが食いつく。
「大きいの?」
「大きなものなら百尺を超えるとか」
ラディが俺を見る。
俺は目を逸らした。
「兄ちゃん」
「まだ何も言ってないぞ」
「行こう」
「やっぱりか」
「見たい!」
海の時から何も変わっていない。
いや。
むしろ悪化している。
「春になってからな」
「本当?」
「冬に知らない森へ入る気はない」
「じゃあ春になったら行く?」
「……まあ、行ってみるか」
「やった!」
こうして、次の目的地が決まった。
それからも冬の間、俺たちは商会で暮らした。
朝はエルフ語。
昼は商会の仕事。
休みの日には町を歩いた。
最初は何一つ分からなかった町が、少しずつ身近になっていく。
市場へ行けば馴染みの店ができた。
「今日は安いぞ」
「昨日もそう言ってただろ」
「今日は本当に安い」
「じゃあ昨日は嘘だったのか?」
店主が笑う。
そんな冗談まで言えるようになった。
ラディは俺以上だった。
気づけば倉庫の連中と普通に話している。
「お前、随分上手くなったな」
「兄ちゃんも喋れるじゃん」
「お前ほどじゃない」
「僕の方が若いからかな」
「二歳しか違わないだろ」
「二歳は大きいよ」
「何がだよ」
冬は長かった。
けれど退屈ではなかった。
そして少しずつ日が長くなった。
雪が融け始める。
市場に春の野菜が並ぶ。
港へ入る船の数も増えていった。
ある朝、商館の中庭へ出ると、暖かな風が吹いた。
春だった。
俺たちは荷物をまとめた。
冬の間、厩で休ませていた二頭の馬も元気だった。
鞍を載せる。
荷物を括りつける。
弓を確認する。
剣もある。
この国へ来た時には一言も分からなかったエルフ語も、今では旅をするくらいなら困らない。
商館の前には、主人と書記、それに冬の間に顔馴染みになった商会の者たちが集まっていた。
主人が俺たちを見る。
今度は通訳を挟まない。
「本当に行くのか?」
聞き取れる。
それだけのことが、少し嬉しかった。
俺もエルフ語で答えた。
「はい。長い間ありがとうございました」
主人が笑った。
「最初に会った頃より随分上手くなったな」
「まだ難しい話は無理ですけど」
「旅には十分だ」
書記とも握手する。
最後に商館の料理人が包みを二つ持ってきた。
「持っていけ」
ラディが受け取る。
「何?」
「開けるな。道中で食え」
「食べ物?」
「そうだ」
ラディが嬉しそうな顔をする。
俺にも一つ渡された。
「お前の分もある」
「ありがとうございます」
「弟に取られるなよ」
「兄ちゃんのもあるの?」
「お前、自分のあるだろ」
周囲から笑い声が上がった。
俺たちは馬へ跨った。
町の西門へ向かう。
振り返ると、商会の者たちがまだ手を振っていた。
俺たちも手を上げる。
そして町を出た。
「兄ちゃん」
「なんだ?」
「石の森ってどんなところかな」
「さあな」
「本当に石が木みたいにいっぱいあるのかな」
「行けば分かる」
「古代遺跡とかあるかな」
「それも行けば分かる」
ラディが笑う。
俺も少し笑った。
冬の間、ずっと同じ町で暮らしていたせいだろう。
久しぶりに馬で街道を進む感覚が妙に懐かしい。
背後には冬を過ごした港町。
前には、まだ見たことのない土地。
そして西の彼方には、古い地図に記されていた石の森がある。
海を見たくて始めた旅は、いつの間にかずいぶん長くなった。
海。
浮島。
砂漠。
大山脈。
そしてエルフの国。
一つの場所へ辿り着くたび、そこで次の知らないものを知る。
だから旅が終わらない。
いや。
たぶん、俺たち自身が終わらせる気などないのだ。
「兄ちゃん!」
少し先へ出たラディが振り返る。
「早く!」
「分かったよ!」
俺も馬の腹を軽く蹴った。
二頭の馬が春の街道を駆けていく。




