薬
春になり、俺たちは冬の間世話になった商会をあとにした。
数か月も滞在していたせいで、出発の朝はどこか妙な気分だった。最初にこの町へ来た時には、周囲で何を話しているのかさえ分からなかったのに、今では宿を取るにも、食事を頼むにも、道を尋ねるにも困らない程度にはエルフの言葉を話せるようになっている。
ラディに至っては、市場の人間と冗談まで言い合うほどだった。
馬には旅装を整え、鞍袋には食料と水、それに冬の間に買い足した道具を詰めてある。そして俺の懐には、一枚の古い地図が入っていた。
商会の倉庫整理を手伝っていた時、古い帳簿の束に紛れて見つけたものだ。
今使われている街道とはかなり違い、すでに消えてしまった村や、今では使われていない古道まで記されている。そして地図の中央付近には、奇妙な印とともに一つの名前が書かれていた。
――石の森。
商会の者たちに尋ねても、詳しいことを知る者はいなかった。ただ、ずっと東へ行けば、奇妙な石柱が無数に立っている土地があるという話だけは聞けた。
それだけ聞けば十分だった。
ラディに話したところ、
「行こう!」
と即答された。
まあ、そうなると思っていた。
町を出てから十数日。
俺たちは古い地図を頼りに、ひたすら東へ進んだ。
街道を外れてからは旅人と出会うこともほとんどなくなり、途中にある小さな村で道を尋ねながら進んでいく。
そして石の森へ着く二日前。
俺たちは広い沼地にぶつかった。
「……ここ通るの?」
ラディが嫌そうな顔をする。
「地図だと、この先なんだよな」
迂回路らしい道もあるにはある。
ただし、大きく北へ回り込むことになる。
俺は馬上から沼地を眺めた。水深そのものは浅そうで、ところどころには草も生えている。
「ゆっくり行けば大丈夫だろ」
「馬、沈まない?」
「固いところを選んでいこう」
最初のうちは問題なかった。
だが途中から、急に地面が柔らかくなった。
ずぶっ。
俺の馬の前脚が深く沈む。
「おっと!」
慌てて手綱を引く。
馬も脚を抜こうと暴れるが、余計に泥へ沈んでいく。
「兄ちゃん!」
「ラディ、降りろ!」
俺たちはすぐに馬から降り、荷物の一部を外して二人で手綱を引いた。
泥は脛まで来る。
場所によっては膝近くまで沈んだ。
「最悪……」
ラディが顔をしかめる。
「文句言ってないで引け」
「分かってるよ」
何度も足を取られながら泥水を進み、どうにか二頭の馬を沼から出した。
その日のうちに近くの川を見つけ、泥だらけになった脚と靴を洗った。
それで終わったと思っていた。
二日後。
森が途切れた。
そして俺たちは、ほとんど同時に馬を止めた。
「……兄ちゃん」
「ああ」
目の前に、無数の石柱が立っていた。
一本や二本ではない。
何十本。
何百本。
その向こうにも延々と続いている。
石の森。
ようやく名前の意味が分かった。
高いものでは十丈を超えているだろう。巨大な石柱が地面から真っ直ぐ空へ向かって伸びている。
奇妙なのは、その形だった。
自然の岩とは思えないほど整っている。
六角形。
八角形。
中には、ほとんど円柱に近いものまである。
それらが束になって立っていたり、一本だけ離れていたりしながら、見渡す限り続いていた。
「これ、人が作ったのかな」
ラディが馬から降りる。
「どうだろうな」
俺も石柱へ近づき、表面へ触れてみた。
ひんやりと冷たい。
爺さんと調べた古代遺跡を思い出したが、あれとは明らかに違う。
継ぎ目がない。
削った跡も見当たらない。
少なくとも俺には、人工物なのか自然にできたものなのかさえ判断できなかった。
その時だった。
「あれ」
ラディが石柱の間を指差した。
人がいる。
小柄な老婆だった。
石柱の根元へしゃがみ込み、何かをしている。
俺たちは馬を引きながら近づいた。
老婆の前には素焼きの器が二つ置かれていた。
一つには水。
もう一つには白い塩。
その傍らには、小さな野花まで添えられている。
老婆は石柱へ向かって何かを唱えていた。
エルフの言葉ではあるが、聞き慣れない古い言い回しが多く、ところどころしか理解できない。
やがて祈りが終わる。
「何をしているんですか?」
俺が尋ねると、老婆が振り返った。
「あんたら、旅の者かい?」
「はい」
「ここへ何しに来た?」
「石の森を見に」
老婆は俺たちをしばらく眺め、それから笑った。
「変わった若者だねえ。こんな石しかないところへ、わざわざ来るなんて」
「この石、何なんですか?」
今度はラディが尋ねる。
老婆は目の前の巨大な石柱を見上げた。
「神々の背骨さ」
「背骨?」
「そう」
老婆は石柱へ皺だらけの手を添えた。
「大昔、まだ山も川も今とは違う形をしていた頃、神々がこの地を歩いていた。やがて神々は眠りにつき、その身体は大地になった。けれど背骨だけは土へ還らず、こうして残った」
俺も石柱を見上げた。
そう言われてみれば、巨大な何かの骨にも見えてくる。
「本当に神様の骨なの?」
ラディが尋ねる。
「さあね」
老婆が笑った。
「わしが見たわけじゃないからね」
「ええ……」
「でも、わしの婆さんも、そのまた婆さんも、そう教えられてきた」
老婆の一族は、代々この石の森を祀っているらしい。
年に何度か石柱を巡り、水と塩を供える。
水は命。
塩は大地。
それを神々へ返すのだという。
話を聞いているうちに、俺もラディもすっかり興味を引かれてしまった。
石柱にはそれぞれ名前があること。
特定の石柱へ耳を当てると、風の強い日に低い音が聞こえること。
昔は石柱の頂に鳥を捧げる祭りもあったこと。
老婆は次から次へと話してくれた。
気づけば日が傾き始めている。
「今日はどうするんだい?」
「この辺で野宿しようかと」
そう答えると、老婆が呆れたように俺たちを見る。
「馬鹿だねえ。うちへ来な」
「いいんですか?」
「若いのが二人増えたくらいで家が潰れるもんか」
こうして俺たちは、石の森から少し離れた老婆の村へ泊めてもらうことになった。
小さな村だった。
石造りの家が十数軒。
畑と家畜小屋。
それだけの村だ。
夕食には豆と野菜の煮込み、それに固いパンが出た。
食事を終えてからも、老婆は昔話を聞かせてくれた。
神々が山を造った話。
月を盗んだ狐の話。
石の森の地下には、今も眠っている神がいるという話。
ラディは子供のように夢中になって聞いていた。
「じゃあ、神様が起きたらどうなるの?」
「世界がひっくり返る」
「本当に?」
「さあね」
「婆ちゃん、そればっかりじゃん」
「昔話なんてそんなもんさ」
笑い声が上がる。
旅先でこうして知らない土地の話を聞くのは楽しかった。
その夜、俺たちは久しぶりに屋根のある場所で眠った。
だから俺は何も気づかなかった。
翌朝。
まだ外が薄暗い頃だった。
「……兄ちゃん」
小さな声がした。
俺は目を覚ました。
「ん……?」
隣を見る。
ラディが身体を丸めている。
「どうした?」
「お腹……痛い」
「腹?」
寝ぼけながら身体を起こす。
最初は、昨日食べたものが合わなかったのだと思った。
「便所行ってこいよ」
「違う……」
ラディの声がおかしかった。
俺は完全に目が覚めた。
「ラディ?」
額には汗が浮かび、顔色も悪い。
両腕で腹を抱え込み、膝を胸まで引き寄せている。
「おい」
肩へ触れると、身体が小さく震えていた。
「いつからだ?」
「夜中……」
「夜中?」
「うん……」
「なんで起こさなかった!」
思わず声が大きくなった。
ラディが苦しそうに目を開く。
「兄ちゃん……寝てたから」
「起こせよ!」
「ごめん……」
「……いや」
怒っている場合じゃない。
「どこが痛い?」
「全部……」
腹へ手を当てようとすると、
「っ!」
ラディが身体を強張らせた。
「悪い」
尋常ではない。
旅の途中で腹を壊したことくらい何度もある。
けれど、こんな痛がり方をしたことはなかった。
「ラディ。水飲めるか?」
小さく頷く。
木杯を口元へ持っていく。
二口ほど飲んだところで、ラディが顔を背けた。
「もういい……」
「少しでも飲め」
「吐きそう……」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
雷なら出せる。
風も起こせる。
火も水も操れる。
それなのに、目の前で苦しんでいる弟に何をすればいいのか分からなかった。
「くそ……」
その時、扉が開いた。
「どうしたんだい」
昨日の老婆だった。
「婆さん、ラディが――」
俺の声を聞き終えるより早く、老婆の顔つきが変わった。
寝床へ近づき、ラディの顔を見る。
腹へ触れる。
舌を見る。
目蓋を開く。
そして尋ねた。
「あんたら」
「はい」
「ここへ来る途中、東の沼を通らなかったかい?」
俺は固まった。
「……通りました」
「馬で?」
「途中までは。でも馬の脚が泥に取られて……」
嫌な予感がした。
「降りました」
老婆の顔が曇った。
「どれくらい歩いた?」
「分かりません。半刻くらいは」
「裸足かい?」
「いえ。靴は履いてました」
老婆はラディへ目を戻した。
「あの沼には病がある」
「病?」
「沼を歩いた者がなる。最初は腹が痛む。そのうち腹が膨れ始める。食べても吐くようになって、最後には水さえ飲めなくなる」
俺は言葉を失った。
「治るんですか?」
「放っておけば死ぬ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
寝床を見る。
ラディは目を閉じている。
「……薬は?」
「ある」
即答だった。
俺は老婆を見る。
「あるんですか?」
「ああ。だから落ち着きな」
「どこです?」
「南へ行けば川がある。その川を上流へ辿るんだ。山へ入ると沢になる。その沢の上の方に黄色い花が咲いている」
「どんな花です?」
「待ちな」
老婆が紙を持ってきた。
震えるような手で花の形を描く。
細長い葉。
黄色い五枚の花弁。
中央だけが黒い。
「似た花がある。間違えるんじゃないよ。茎に細かい赤い斑点がある方だ」
「赤い斑点」
俺は繰り返した。
「根も?」
「花と葉だけでいい。できれば十輪。少なくても五輪は持ってきな」
「分かりました」
立ち上がる。
「兄ちゃん」
背後から声がした。
振り返る。
ラディがこちらを見ている。
「どこ行くの……?」
「薬取ってくる」
「僕も――」
「寝てろ」
「でも」
「すぐ戻る」
そう言ったものの、本当にすぐ戻れるのか分からない。
川までどれくらいかかるのか。
沢のどこに花があるのか。
そもそも見つかるのか。
何も分からない。
それでも。
「待ってろ」
それだけ言って、部屋を出た。
馬を走らせた。
久しぶりに、本気で走らせた。
街道などない。
老婆に教えてもらった方角だけを頼りに、南へ向かう。
木々の間を抜ける。
草原を横切る。
枝が頬へ当たった。
痛い。
そんなものはどうでもよかった。
――放っておけば死ぬ。
老婆の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
「もっと早く言えよ……」
思わず呟いた。
夜中から痛かった。
それなのに、ラディは俺を起こさなかった。
俺が寝ていたから。
「馬鹿野郎……」
でも、気づかなかった俺も同じだった。
馬の首筋へ汗が浮いてきた。
「もう少しだ。頼む」
速度を少し落とす。
潰してしまえば帰れなくなる。
急ぎたい。
けれど無茶をさせるわけにはいかない。
焦りを押し殺しながら進んでいると、やがて水音が聞こえてきた。
「川!」
川沿いを上流へ向かう。
しかし、しばらくすると道は急に狭くなり、岩が増え始めた。
これ以上は馬では進めない。
「ここまでか」
手綱を木へ結ぶ。
水と剣、それに老婆が描いた花の絵だけを持つ。
「待ってろよ」
馬の首を一度叩き、俺は走り出した。
沢登りは想像以上にきつかった。
岩から岩へ飛び移る。
滑る。
転ぶ。
また立ち上がる。
靴の中まで水が入り、膝を岩へぶつけ、手のひらまで切った。
それでも止まれない。
黄色。
黄色。
黄色。
視界に入る色を片っ端から確認する。
「あった!」
駆け寄る。
違う。
花弁が四枚。
また走る。
「あれは……!」
今度は五枚。
中央も黒い。
だが。
「斑点がない……」
違う。
日が高くなっていく。
時間ばかりが過ぎる。
「どこだよ……」
呼吸が荒い。
額から汗が落ちる。
一瞬だけ、嫌な想像が頭へ浮かんだ。
戻った時ラディが。
「やめろ」
声に出した。
考えるな。
探せ。
まだ生きている。
俺が持って帰れば助かる。
それだけ考えろ。
さらに沢を登る。
そして、滝の近くまで来た時だった。
水飛沫が絶えず降りかかる岩陰に、小さな黄色が見えた。
俺は駆け寄った。
しゃがみ込む。
五枚の花弁。
中央が黒い。
茎を見る。
細かな赤い斑点。
「……あった」
ようやく見つけた。
手が震えている。
一本。
二本。
三本。
数える。
十二本。
必要なのは十本。
全部採ろうとして――手を止めた。
二本だけ残す。
また来年も咲くかもしれない。
「十本……」
慎重に布へ包み、胸元へ入れた。
そして、来た道を引き返した。
帰りの方が怖かった。
見つけたからこそ、一刻でも早く戻りたい。
岩を飛び降りる。
その時。
足を滑らせた。
「うわっ!」
身体が傾く。
咄嗟に岩へしがみつく。
下では沢の水が激しく流れている。
心臓が跳ねた。
「……馬鹿か、俺は」
ここで死んだら意味がない。
ラディを助ける薬を持ったまま死ぬ。
それだけは駄目だ。
そこからは無茶をしないよう気をつけた。
それでも、できる限り急いだ。
ようやく馬のところへ戻る。
手綱を解く。
跨る。
「頼む!」
馬を走らせる。
太陽が傾き始めていた。
やがて村が見えた。
「婆さん!」
馬から飛び降りる。
「採ってきた!」
老婆が家から出てきた。
「見せな!」
布を開く。
老婆が一本手に取る。
花を見る。
茎を見る。
「これだ」
その一言で、膝から力が抜けそうになった。
「ラディは?」
老婆は答えず、家の中へ入った。
俺も追う。
寝床にはラディが横になっていた。
朝より顔色が悪い。
「ラディ」
返事がない。
「おい」
近づく。
「ラディ!」
「騒ぐんじゃないよ。眠ってるだけだ」
老婆に怒鳴られた。
慌てて胸を見る。
ゆっくり上下している。
息をしている。
「……よかった」
本当に、それだけで身体から力が抜けた。
だが、まだ終わっていない。
老婆はすぐに花を刻み始めた。
湯を沸かし、黄色い花弁と葉を入れる。
しばらく煮出すと、水は濃い黄色へ変わった。
「起こしな」
俺はラディの身体を起こした。
「ラディ」
「……兄ちゃん?」
「薬だ。飲め」
「苦い?」
「知らん」
「苦いの嫌だな……」
「文句言えるなら飲める」
木杯を口元へ運ぶ。
一口。
ラディの顔が歪んだ。
「……まずい」
「全部飲め」
「すごくまずい」
「死ぬよりいいだろ」
「それはそうだけど……」
ほんの少しだけいつものラディだった。
それが妙に嬉しかった。
「ほら」
時間をかけ、全部飲ませた。
その夜、俺は眠らなかった。
ラディの横へ座り、時々呼吸を確かめた。
額へ触れ、水を飲ませる。
夜中。
「兄ちゃん」
「なんだ?」
「まだ起きてるの?」
「寝てるよ」
「起きてるじゃん」
「うるさい。寝ろ」
ラディが小さく笑った。
そして少しして、
「……ごめんね」
と呟いた。
「何が?」
「心配かけて」
俺は少し黙った。
「次から痛かったら、すぐ言え」
「うん」
「俺が寝てても起こせ」
「うん」
「絶対だぞ」
「分かったって」
俺はラディの頭を軽く叩いた。
「なら寝ろ」
「兄ちゃんもね」
「分かったよ」
そう答えた。
結局、その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝。
ラディの腹痛は少し軽くなっていた。
二日目には水を普通に飲めるようになり、三日目には粥を食べられるようになった。
五日目には、
「外歩いていい?」
と言い出した。
「駄目」
「もう大丈夫だよ」
「駄目」
「ちょっとだけ」
「寝てろ」
「兄ちゃん心配しすぎ」
「誰のせいだと思ってんだ」
七日目。
ようやくラディは外へ出た。
まだ少し痩せている。
それでも、自分の足で歩いている。
俺にはそれだけで十分だった。
村外れまで歩いたところで、ラディが大きく伸びをする。
「やっと治った!」
「走るなよ」
「走らないって」
その時、後ろから老婆の声がした。
「あんた」
「はい?」
俺が振り返る。
「あんたも同じ沼を歩いたんだろ?」
「……」
俺は止まった。
そういえば。
「……歩きましたね」
「なら、しばらく気をつけな。症状が出るまでの日数には差があるからね」
俺は自分の腹を見る。
ラディも俺を見る。
数秒の沈黙。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「お腹痛くない?」
「今のところは」
「痛くなったらすぐ言ってね」
「お前にだけは言われたくない」
ラディが笑った。
俺も笑った。
その笑い声を聞きながら、ようやく本当に終わったのだと思えた。




