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吸血鬼

ラディの体調が完全に戻ってからも、俺たちはしばらく老婆の村に滞在した。

石の森そのものもまだ見足りなかったし、何より俺もラディと同じ沼を歩いていたため、念のため数日は様子を見るよう老婆に言われていたからだ。

幸い、俺には何の症状も出なかった。

そんなある日の夕方。

老婆の家の前で、俺たちはいつものように話を聞いていた。

「婆さん」

「なんだい」

「この辺に、石の森みたいな変わった場所って他にもある?」

俺が尋ねると、老婆は少し考えた。

「珍しいものが見たいのかい?」

「はい」

「なら西へ行くといい」

「西?」

老婆は石の森の向こうへ目を向けた。

「ずっと西へ行くと、とんでもなく大きな木が生えている土地があるよ」

ラディがすぐに反応した。

「どれくらい大きいの?」

「さあねえ。わしも若い頃に一度見ただけだから」

「石柱より大きい?」

「高さなら似たようなもんかもしれないね。ただし、あっちは生きた木だよ」

俺も興味が出てきた。

「その木を見に行けるんですか?」

「見るだけじゃない」

老婆が笑う。

「その大木に人が住んでる」

「木に?」

ラディが目を丸くした。

「ああ。幹の中に家を作ってね。太い枝の上にも部屋がある。村そのものが木の上にあるようなところもあるよ」

ラディが俺を見る。

その顔を見ただけで、何を言いたいのか分かった。

「兄ちゃん」

「行くんだろ」

「うん!」

「そうだな」

俺だって見てみたい。

生きた大木の中に造られた村。

また一つ、次の目的地が決まった。


数日後。

俺たちは老婆と村人たちへ別れを告げ、西へ向かった。

石の森の周辺までは、まだ人が使う道があった。

だが、西へ進むにつれて道幅は次第に狭くなり、やがて道と呼んでいいのかすら怪しいものになっていった。

「これ、道?」

馬上からラディが尋ねる。

「たぶん」

「獣道じゃない?」

「たぶんそれも混じってる」

人間の国なら、町と町の間には大抵街道が整備されている。

エルフの国でも港町の周辺はそうだったが、内陸へ入ると事情が違うらしい。

森を大きく切り開いて道を造ることを嫌う地域も多く、道は森の形に沿うように曲がりくねっている。そのうえ古い獣道と交わる場所も多く、どちらが人の使う道なのか分からなくなることさえあった。

時には倒木が道を塞いでいた。

そのたびに馬から降り、邪魔な枝を切る。

沼地があれば大きく迂回し、小川へぶつかれば渡れそうな場所を探す。

思っていた以上に進まなかった。

そして三日目。

とうとう道を見失った。

「兄ちゃん」

「……」

「ここ、さっき通らなかった?」

「通ってない」

「この曲がった木、見たよ」

「森なんだから似た木くらいあるだろ」

「でも、この傷もあった」

ラディが一本の木の幹を指差した。

斜めに走った大きな傷。

確かに見覚えがある。

俺は黙った。

「……迷った?」

「たぶん」

「兄ちゃんでも迷うんだ」

「嬉しそうに言うな」

幸い、その日は空が晴れていた。

夜になって木々の隙間から星が見え始めたところで、俺は馬を止めた。

「今日はここで野営しよう」

「明日は?」

「方角さえ分かればどうにかなる」

以前、浮島の星見台で天文学者に教えてもらったことを思い出す。

俺は木々の隙間から夜空を見上げた。

季節が変わっても位置の変わりにくい星を探し、そこから北を割り出す。

北が分かれば西も分かる。

まさか、あの時教えてもらったことがこんな場所で役に立つとは思わなかった。

翌朝。

俺たちは夜のうちに確かめておいた方角を頼りに、再び森を進んだ。


その日の昼過ぎだった。

前方から、落ち葉を踏む音が聞こえた。

俺は片手を上げてラディを止める。

「誰か来る」

念のため弓へ手を伸ばした。

やがて木々の間から、一人の男が姿を現した。

エルフだった。

見た目は若い。

腰には短い弓と曲刀を下げている。

男はこちらに気づくと、一瞬足を止めた。

「人間?」

今ではその言葉が分かる。

初めてエルフの国へ渡った時には何を言われても首を傾げるしかなかったことを思うと、それだけで少し嬉しくなった。

「はい」

「こんなところで何してる?」

「東から来ました。西にある、大木に家を造って暮らしている村を探しているんです」

男が首を傾げた。

「大木の村?」

「ああ」

少し考えたあと、男は納得したように頷いた。

「ああ、それなら俺の村だな」

「本当ですか?」

「たぶん。この辺りにそんな村は他にないからな」

「見に行ってもいいですか?」

「別に構わんぞ。何もない村だけど」

「大木の中に家があるんですよね?」

ラディが嬉しそうに尋ねる。

「あるよ」

男は自分が来た方を指した。

「ついてくるか?」

「お願いします」

こうして俺たちは、運よくその村の住人に案内してもらえることになった。

しばらく一緒に森を歩く。

俺は隣を歩いている男を何となく見た。

見た目だけなら二十代半ばくらいだろうか。

「失礼ですけど」

「なんだ?」

「二十五歳くらいですか?」

男が一瞬黙った。

そして突然、大声で笑い始めた。

「はははは! そんなに若く見えるのか」

「違うんですか?」

「俺は百五十だよ」

俺とラディが同時に男を見る。

「百五十!?」

「そうだ」

「嘘でしょ?」

「嘘ついてどうする」

ラディが男の顔をまじまじと見つめた。

「全然見えない」

「人間に比べれば、俺たちは歳を取るのが遅いからな」

頭ではエルフが長寿だと知っていた。

だが、実際に百五十歳の男が若者のような姿で目の前を歩いていると、何とも妙な気分になる。

「じゃあ爺さんなの?」

ラディが聞く。

「誰が爺さんだ」

「百五十なのに?」

「まだ若い」

「エルフってよく分からないな」

俺も同感だった。


さらに一刻ほど進んだところで、青年が突然立ち止まった。

「着いたぞ」

「え?」

周囲を見ても森しかない。

大木らしきものも見当たらなかった。

「上だ」

言われて顔を上げる。

「……うわ」

そこに一本の巨大な木がそびえ立っていた。

近すぎて気づかなかったのだ。

とにかく太い。

幹だけで家が何軒も入りそうだった。

地面から伸びる根も巨大で、うねるように森の中へ広がっている。一本一本が人の背丈より太い。

そして見上げる。

高い。

首が痛くなるほど見上げても、頂は遥か上の枝葉に隠れて見えなかった。

だが、何より驚いたのは幹だった。

扉がある。

窓もある。

しかも一つや二つではない。

「……あれ、家?」

ラディが尋ねる。

「ああ」

青年が答えた。

「入ってみろよ」

俺たちは馬を預け、木の根元に設けられた扉から中へ入った。

「……広いな」

とても木の中とは思えない。

幹の中央には巨大な空間があり、その周囲を螺旋階段が上へ上へと続いている。

床も壁も天井も木だった。

だが、切り出した板を張り付けているわけではない。

生きた幹そのものが、部屋や通路の形になっている。

俺は壁へ手を当てた。

僅かな湿り気があり、ほんのりと温かい。

この家は今も生きているのだ。

「兄ちゃん、上行こう!」

「待てって」

ラディに急かされながら螺旋階段を上る。

二階。

三階。

さらに上。

途中にはいくつもの部屋があり、太い枝へ出られる扉もあった。

枝そのものが道のようになっており、その上に小屋が建っている場所まである。

中には枝がそのまま床や壁になっている家もあった。

「すごい……」

ラディは大喜びだった。

村には同じような巨木が他にも何本かあり、それぞれが住居や倉庫、集会所として利用されていた。

俺たちは空いている一室を貸してもらえることになった。

こんな森の奥深くまで人間の旅人がやって来ることは珍しいらしく、夕方になる頃には、噂を聞きつけた村人たちが次々と俺たちを見に来た。

「本当に人間だ」

「どこから来た?」

「海の向こうから来たのか?」

「その弓、人間の国のものか?」

完全に見世物だった。

だが悪い気はしなかった。

夕食には、森で採れた木の実や茸の煮込み、香草を添えた鹿肉などが並んだ。

静かで、穏やかな村だった。

俺はこの時、数日くらいここでのんびりするのも悪くないと思っていた。


翌日の昼。

突然、空から大きな羽音が聞こえた。

ばさっ、ばさっ、と重い音が森の上から響いてくる。

村人たちが一斉に空を見上げた。

巨大な鳥が旋回している。

翼を広げれば五丈近くはありそうだった。

そして、その背には一人のエルフが乗っている。

「……鳥に乗ってる」

ラディが呟く。

俺も初めて見た。

大鳥は村の中央にある広場へ降りた。

背中に乗っていたエルフが飛び降りる。

その顔を見た瞬間、周囲の空気が変わった。

青ざめている。

男は息を切らしながら叫んだ。

「大変だ!」

村人たちが一斉に集まる。

「北で吸血鬼が出た!」

一瞬。

広場が静まり返った。

直後、あちこちから声が上がる。

「本当か?」

「どこだ!」

「何人やられた!」

大鳥に乗ってきた男が続けた。

「北の村から知らせが来た! 戦える者は西の村へ集まれ! 今日中にだ!」

俺は近くにいた、昨日俺たちを案内してくれた青年へ尋ねた。

「吸血鬼って、そんなに危険なんですか?」

青年の顔から、昨日までの気楽さが消えていた。

「知らないのか?」

「名前くらいは」

「四百年前にも出た」

青年は低い声で言った。

「その時は十の村が消えた」

「十?」

「戦士も百人以上死んだ」

ラディも黙った。

「単純に強いんだ。腕力も速さも、人間や俺たちとは比べものにならない」

青年はそこで一度言葉を切った。

「それだけじゃない」

「まだあるんですか?」

「魅了だ」

「魅了?」

「心を支配する」

青年は自分の胸を指した。

「精神の弱い奴なら、目を合わせたり、声を聞いたりしただけで逆らえなくなる。酷い時には、仲間を襲うよう命令されても従ってしまう」

それは厄介どころの話ではなかった。

俺はラディを見る。

「ラディ」

「うん」

「村に残ろう」

ラディは少し迷ったようだったが、やがて頷いた。

「そうだね」

青年も言った。

「その方がいい」

「人間だから?」

「それもある。それに、お前たちは吸血鬼と戦った経験がないだろ」

否定できない。

俺たちは旅人だ。

この村の戦士でもない。

何も知らない相手との戦いへ、わざわざ首を突っ込む理由もなかった。

その日のうちに、戦える者たちは次々と村を出ていった。

青年も武装を整える。

「行くんですか?」

「ああ」

「気をつけて」

「お前らもな」

村に残ったのは、老人や子供、それに戦えない者たちが中心だった。

俺とラディは、もしもの時の避難に備えて村の防備を手伝うことにした。

枝の上に張られた柵を補強する。

矢や水を運び、食料を一か所へまとめる。

巨木の根元にある入口には、簡単な障害物も設けた。

「これで何もなければいいけどな」

俺が言う。

「うん」

だが。

何も起こらないまま終わることはなかった。


四日目の昼。

北の森から、一人のエルフが走ってきた。

血まみれだった。

片腕を押さえ、今にも倒れそうな足取りで村へ駆け込んでくる。

「逃げろ!」

村人たちが集まった。

「どうした!」

「戦線が破られた!」

男が息を切らしながら叫ぶ。

「グールが来る! 今、後ろで仲間が食い止めてる! 動ける者から逃げろ!」

その言葉で、村が一気に騒がしくなった。

「グールって?」

俺が尋ねると、負傷した男がこちらを見た。

「吸血鬼に血を吸い尽くされた死体だ」

「死体?」

「ああ。だが動く」

男が顔を歪めた。

「それだけじゃない。吸血鬼の速さも少し受け継いでる」

死体が動く。

しかも速い。

「ラディ」

「うん」

まずは村人を逃がす。

荷物など後回しだ。

子供。

老人。

一人では歩けない者。

村人たちを南側へ誘導していく。

俺とラディも声を張り上げた。

「こっち!」

「荷物は置いて!」

「子供を先に!」

そんな最中だった。

森の奥から悲鳴が響いた。

「ぎゃあああっ!」

人の声だった。

直後。

木々の間から何かが飛び出してきた。

人の姿をしている。

だが、その動きは明らかに人間のものではない。

肌は灰色に変色し、口元は血で汚れている。

目には何の感情も浮かんでいない。

一体。

二体。

さらにその後ろから次々に現れる。

十体を超えた。

「来た!」

俺は弓を取った。

矢をつがえ、放つ。

胸へ命中した。

だが、グールはそのまま走り続ける。

「……嘘だろ」

すぐに二本目。

今度は喉へ突き刺さった。

それでも止まらない。

「兄ちゃん!」

「矢が効かない!」

ラディが剣を抜いた。

先頭のグールが勢いよく飛びかかる。

速い。

「っ!」

ラディは横へ身体をずらしてかわし、そのまま剣を振った。

腕が一本飛ぶ。

だがグールは怯まない。

残った腕を伸ばし、口を大きく開けてラディへ噛みつこうとする。

「まだ動く!」

「首か脚を落とせ!」

ラディが踏み込む。

一閃。

首を斬り飛ばす。

さらに返す剣で両脚を切断した。

グールが地面へ崩れる。

今度こそ動かなくなった。

「面倒だな!」

俺も弓を背へ戻した。

魔力を練る。

風。

刃のように薄く絞った風を横薙ぎに放つ。

空気が鋭く唸り、グールの胴体が斜めに両断された。

だが、それでも上半身だけで地面を這おうとする。

「気持ち悪っ!」

ラディが顔を引きつらせた。

「もっと細かく切るしかない!」

次の風を交差させる。

首。

腕。

脚。

いくつもの部位へ切り分けられ、ようやく動きを止めた。

村へ逃げ込んできたエルフの戦士が、その様子を見ていた。

「お前ら……」

「何!」

「やるな!」

今は褒められている場合ではない。

戦士は森の向こうを指差した。

「向こうにも群れがいる! 手を貸せるか!」

俺とラディは顔を見合わせた。

「行く?」

「ここまで来たらな」

俺は頷いた。

「手伝います!」

そこからは、ひたすらグールと戦った。

ラディが前へ出て剣で首や脚を落とす。

俺は後方から風の魔法で切断する。

数が多い時には火も使った。

グールは確かに速い。

だが、戦っているうちに分かった。

動きそのものは単純だ。

飛びかかる。

掴む。

噛みつく。

生きた人間のような駆け引きはない。

速さにさえ慣れれば、動きを読むことはできた。

やがて最後の一体が倒れた。

周囲には、切断されたグールの死体が散らばっている。

「……終わった?」

ラディが息を整えながら尋ねる。

「ここはな」

一緒に戦ったエルフの戦士が、俺たちをじっと見ていた。

そして、しばらくして言った。

「頼みがある」

嫌な予感がした。

「何です?」

「吸血鬼の討伐を手伝ってくれ」

俺は黙った。

「本気ですか?」

「ああ」

「人間には荷が重いって言ってませんでした?」

「訂正する」

戦士は周囲に倒れているグールへ目を向けた。

「お前らは十分強い」

ラディが俺を見る。

俺もラディを見る。

「どうする?」

「行こう」

今度はラディが即答した。

俺は少し考えた。

吸血鬼。

未知の相手。

危険なのは分かっている。

だが、逃げる村人を見た。

グールにされた死体も見た。

このまま放っておけば、また別の村が襲われる。

「分かりました」

俺は頷いた。

「手伝います」


その日の夕方。

戦える者の中から二十人が選ばれ、俺とラディもその中へ加わった。

吸血鬼は北の森の奥にある、古い石造りの館へ居座っているらしい。

俺たちはそこを目指した。

森には血の臭いが残っていた。

途中には壊された荷車や、血に濡れた服が落ちている。

さっきまで話をしていた戦士たちも、次第に口数が少なくなった。

やがて館が見えてくる。

古びた石造りの建物だった。

そして庭には、数十体のグールが立っている。

「来るぞ!」

戦士たちが武器を構えた。

「吸血鬼はどこだ!」

その時。

館の扉がゆっくりと開いた。

一人の男が姿を現した。

白い肌。

黒い長髪。

見た目だけなら、人間やエルフとそれほど変わらない。

だが、その瞳は血のように赤く、口元からは二本の長い牙が覗いている。

吸血鬼は俺たちを見て笑った。

「わざわざ来たのか」

普通にエルフ語を話している。

背筋が寒くなった。

「ラディ」

「うん」

エルフの戦士たちは周囲のグールへ向かった。

俺とラディは吸血鬼へ向かう。

先に動いたのは俺だった。

風を刃のように収束させる。

首を狙う。

一閃。

吸血鬼の首が飛んだ。

「……え?」

あまりにもあっけなかった。

そう思った次の瞬間。

地面へ転がった頭と胴体から、黒い煙のようなものが伸びた。

互いの傷口が繋がっていく。

そして数秒後。

落ちたはずの首が、元通り胴体へついていた。

「……嘘だろ」

吸血鬼が笑う。

ラディが駆けた。

剣を振る。

だが、吸血鬼はその刃を爪で受け止めた。

ガキンッ!

金属同士を打ち合わせたような音が響く。

「硬っ!」

爪がラディの剣を弾き返す。

俺は横から風の刃を連続で放った。

腕。

脚。

腹。

何度も肉が裂ける。

だが、裂けたそばから塞がっていく。

「再生が速すぎる!」

ラディが再び懐へ潜り込んだ。

振り下ろされた爪を剣で受ける。

火花が散る。

そのまま身体を捻り、剣先を吸血鬼の胸へ突き立てた。

「入った!」

深い。

剣は心臓を完全に貫いた。

普通なら即死する傷だ。

だが、吸血鬼は口元を歪めた。

「効かん」

次の瞬間、ラディの身体が蹴り飛ばされた。

「ラディ!」

「大丈夫!」

地面を転がったラディは、すぐに起き上がった。

どうする。

首を落としても駄目。

心臓を貫いても駄目。

なら。

焼く。

俺は火の魔法を放った。

炎が吸血鬼を包む。

だが、焼けた皮膚が次々と再生していく。

「これでも駄目か」

普通の炎では足りない。

再生する速度より、焼き尽くす速度を上げなければならない。

もっと温度を高くする。

どうやって。

そこで思いついた。

空気だ。

火は空気を使って燃える。

なら、風の魔法で大量の空気を一か所へ送り込みながら燃やせばどうなる。

「ラディ!」

「何!」

「しばらくそいつを止めてくれ!」

「どれくらい!」

「分からん!」

「分からないの!?」

「やるしかない!」

「分かった!」

ラディが再び吸血鬼へ向かっていく。

そこからは、ほとんど一対一の戦いになった。

吸血鬼の爪が振るわれる。

ラディが剣で受ける。

受けきれなければ避ける。

隙を見つければ斬る。

傷はすぐ再生する。

それでもラディは斬り続け、吸血鬼をその場から動かさない。

「兄ちゃん! まだ!?」

「もう少し!」

俺は魔法へ集中した。

火。

そして風。

ただ風をぶつけるのではない。

燃え盛る炎の中心へ、空気を押し込む。

さらに。

さらに。

炎の色が変わっていく。

赤。

橙。

そして白へ。

周囲へ漏れる熱気だけで草が焦げ始めた。

「ラディ!」

「うん!」

ラディが大きく後ろへ飛ぶ。

その瞬間、俺は魔法を放った。

白い炎が吸血鬼を包み込む。

「――――ッ!」

初めて。

吸血鬼が絶叫した。

皮膚が焼ける。

再生する。

だが、再生したそばからまた焼け落ちていく。

再生が追いつかない。

「やめろォォォ!」

吸血鬼が炎の中でもがく。

だが逃げられない。

周囲から送り込む風が炎を一点へ集中させ続けている。

さらに空気を送る。

さらに熱を上げる。

髪が燃え尽きる。

皮膚が崩れる。

肉が焼け落ちる。

やがて骨まで黒く変色していく。

吸血鬼の叫び声は次第に小さくなった。

「――ァ……」

そして。

聞こえなくなった。

俺は魔法を止めた。

風が収まり、白い炎が消えていく。

あとに残ったのは、僅かな黒い塊だけだった。

消し炭。

誰も喋らなかった。

ラディも。

エルフの戦士たちも。

ただ、その場所を見つめている。

やがて一人の戦士が、小さく呟いた。

「……死んだのか」

俺はすぐには答えなかった。

近づいて黒い塊を見る。

動かない。

再生もしない。

「……たぶん」

それからもしばらく待った。

だが、何も起こらなかった。

ようやく、本当に終わったのだと分かった。

ラディが俺の隣へ来る。

「兄ちゃん」

「なんだ?」

「すごい火だったね」

「ああ」

「僕、危うく焼かれるところだった」

「だから下がれって言っただろ」

「言うの遅いよ」

「悪かったって」

そこでようやく、少しだけ笑えた。

後ろでは、エルフの戦士たちがまだ黒い消し炭を見つめていた。

四百年前、十の村を滅ぼし、百人以上の戦士を殺したという吸血鬼。

その恐怖を、彼らは単なる昔話としてではなく、一族の記憶として受け継いできたのだろう。

だからこそ、誰も歓声を上げなかった。

やがて一人の戦士が剣を地面へ突き立てた。

それを合図にするように、他の者たちも次々と武器を下ろしていく。

戦いが終わったのだ。


吸血鬼を討ち取ってから数日が経った。

村ではようやく、それまで張りつめていた空気が少しずつ緩み始めていた。

避難していた者たちも戻り、壊された柵や家の修理が進められている。

もちろん、戦いに出た者の中には帰ってこなかった者もいる。

だから誰もが手放しで勝利を喜んでいるわけではなかった。

それでも、吸血鬼は滅びた。

これ以上グールが増えることもない。

それだけでも、村人たちにとっては大きなことだった。

俺とラディもすぐには旅立たず、しばらく村へ残って復旧を手伝った。

そんなある日のことだった。

村の長老から、集会所へ来るようにと言われた。

集会所は、村でも特に大きな木の中ほどに造られている。

広間へ入ると、長老をはじめ、吸血鬼討伐に参加した戦士たちが何人も集まっていた。

「何でしょう?」

俺が尋ねると、長老が立ち上がった。

「まず、改めて礼を言わせてほしい」

そう言って、深く頭を下げる。

「お前たちがいなければ、あの吸血鬼を討ち取ることはできなかっただろう。村を襲ったグールを退けただけでなく、その元凶まで仕留めてくれた。その恩を、言葉だけで済ませるつもりはない」

「でも、俺たちだけで倒したわけじゃありません」

実際、周囲のグールをエルフの戦士たちが引き受けてくれたからこそ、俺とラディは吸血鬼だけに集中できた。

長老もそれは分かっているらしく、静かに頷いた。

「もちろんだ。戦った者たちには、それぞれ相応のものを用意している。ただ、お前たち二人には少し特別なものを渡したい」

長老が後ろへ合図する。

一人の男が、細長い布包みを抱えて前へ出てきた。

俺の前で布が解かれる。

現れたのは一本の弓だった。

「……弓?」

思わず声が漏れた。

形そのものは弓に違いない。

だが、今まで俺が使ってきたどの弓とも違っていた。

全体が淡い琥珀色をしており、表面には美しい木目が走っている。

ただ、その木目が奇妙だった。

普通の弓は木を切り出し、削って形を整える。

だから木目も弓の形とは関係なく途中で切れたり、斜めに走ったりする。

ところが、この弓の木目は違った。

弓の湾曲そのものに沿って、握りから両端まで途切れることなく続いている。

まるで最初から、弓の形をした枝が生えていたようだった。

「触ってみろ」

長老に言われ、両手で持つ。

「……軽い」

見た目から想像していたより、ずっと軽かった。

それでいて弱々しさはない。

試しに少し力をかけてみると、強い反発が返ってきた。

「これ、何の木なんです?」

「秘木だ」

「秘木?」

「我らの森の奥で育てられている特別な木だ。普通の木とは違い、魔力をその身に蓄えることができる」

俺は思わず弓を見た。

「木が魔力を?」

「ああ」

よく見ると、握りの周囲の木目には、銀色の細い筋が混じっていた。

「秘木は育つ過程で周囲の魔力を少しずつ取り込み、自分の中へ蓄える。そして枝を切り離したあとも、その性質は残る」

ラディも興味津々で弓を覗き込んでいる。

「魔石みたいなもの?」

「似ている部分はある。しかし秘木は、使った魔力を再び蓄えることができる。それに持ち主自身の魔力を注いでおくこともできる」

「へえ……」

俺はもう一度弓を眺めた。

やはり妙だ。

「これ、ほとんど削ってないですよね?」

長老が少し笑った。

「よく気づいたな」

「やっぱり」

「秘木の弓は、木を切ってから弓にするのではない。弓になるように木を育てるんだ」

一瞬、意味が分からなかった。

「……木を?」

「ああ。まだ枝が細く柔らかい頃から、職人が紐や支柱を使って少しずつ曲げていく。伸びれば形を直し、太くなればまた調整する。それを何年も、何十年も続ける」

長老は俺の持つ弓を指した。

「十分な太さと強さになったところで初めて枝を切り離し、必要最低限だけ表面を整えて弦を張る」

俺は改めて弓を見た。

なるほど。

だから木目が一度も途切れていないのか。

「この弓は、どれくらいかけて育てたんです?」

「二十八年だ」

「……俺より年上じゃないですか」

周囲から小さな笑い声が上がった。

ラディも弓を覗き込む。

「兄ちゃん、すごいのもらったね」

「ああ……」

二十八年。

そう聞くと、急に持つ手へ力が入った。

「だが、その弓の特徴はそれだけではない」

長老が言った。

「弦を引いてみろ」

俺は弓を構えた。

矢はつがえない。

そのまま弦を引く。

ぎり、と強い張力がかかった。

今までの弓より硬い。

だが、俺なら十分引ける。

「そのまま魔力を流してみろ」

言われた通り、手からごく少量の魔力を弓へ流した。

その瞬間だった。

「……!」

握りの部分が淡く光る。

光は木目に沿って左右へ走り、弓の両端まで広がっていった。

そして、何もなかった弦の上へ細長い光が生まれた。

徐々に形を取り――一本の矢になる。

半透明の、光でできた矢だった。

「これ……」

「魔力の矢だ」

長老が言う。

「弓に蓄えてある魔力を使って、矢を作ることができる」

「じゃあ、本物の矢がなくても撃てる?」

「ああ」

俺は思わず笑った。

「撃ってみてもいいですか?」

「外でやれ」

「……はい」

もっともだった。


村の外へ移動し、少し離れたところにある古い切り株を的にした。

俺は弓を構える。

今度も矢はつがえない。

握りから魔力を流すと、弓が淡く光り、再び光の矢が形を取った。

「兄ちゃん、撃って!」

ラディが俺以上に楽しそうだ。

「分かってるよ」

弦を引く。

狙いを定め、放つ。

ひゅん、と普通の矢とは少し違う鋭い音がした。

次の瞬間。

光の矢が切り株へ突き刺さった。

ばきっ。

「……」

直後、光の矢そのものは消えた。

だが切り株には大きな穴が開き、その後ろの地面にまで細い溝が走っていた。

「おお……」

思わず声が漏れた。

ラディがすぐに切り株へ駆け寄る。

「兄ちゃん! これ、普通の矢より強いよ!」

「みたいだな」

長老が俺の隣へやってきた。

「魔力の量によって威力は変えられる。普通の矢と同じ程度にもできるし、さらに強くすることもできる」

「じゃあ、魔力がある限り何本でも撃てる?」

「いや」

やっぱりか。

「弓そのものが蓄えられる魔力には限界がある。使い切れば、再び魔力が満ちるまで待たねばならん」

「どれくらい?」

「自然に任せれば数日だ。もっとも、自分の魔力を弓へ移しておけば早い」

「なるほど」

普段から余裕のある時に魔力を貯めておく。

必要になれば、その魔力を矢へ変える。

旅をしている俺にはかなりありがたい。

これまで矢は、使えば可能な限り回収し、折れれば修理し、それでも足りなくなれば作るしかなかった。

この弓があれば、矢を補充できない場所でも戦える。

「ただし、普通の矢も持っておけ」

長老が言った。

「なぜです?」

「普通の矢なら、あと何本残っているか見れば分かる。だが魔力はそうはいかん。撃てると思って弦を引いたら、弓の魔力が空だった――などということもある」

「……それは怖いな」

確かに、これ一本に頼り切るのは危険だ。

今までの弓と矢も、予備として持っておいた方がいいだろう。

それでも十分すぎるほどの品だった。

俺は弓の表面をそっと撫でた。

二十八年。

俺が生まれるより前から誰かが育て、手入れを続け、ようやく完成した弓。

「本当に、これを俺がもらっていいんですか?」

「そのために持ってきた」

長老は当然のように答えた。

「森を守ってくれた者が使うなら、この木も悪くは思わんだろう」

「ありがとうございます」

俺は深く頭を下げた。


「で、僕は?」

隣から声がした。

ラディだった。

「お前、催促するなよ」

「兄ちゃんだけだったらずるいじゃん」

「ちゃんとお前の分もある」

長老が笑った。

今度は別の男が、小さな木箱を持ってくる。

蓋を開けると、中には一本の短い棒が入っていた。

長さは肘から指先までより少し短い。

俺の弓より濃い赤茶色をしており、表面には細い溝が何本も走っている。

「……棒?」

ラディが何とも言えない顔をした。

「不満か?」

長老が尋ねる。

「いや……何に使うのか、まだ知らないし」

正直な奴だ。

長老が短棒を取り出し、ラディへ渡した。

「これも秘木だ」

「兄ちゃんのと同じ?」

「種類は違う」

ラディが受け取る。

「軽い」

「少し魔力を入れてみろ」

ラディが短棒へ魔力を流す。

すると、表面に走っていた細い溝へ淡い青色の光が灯った。

「おお……」

「そいつは、魔力を蓄えることだけを目的に育てられた秘木だ」

俺はすぐに用途を理解した。

「つまり、魔力を貯めておく道具?」

「そうだ」

長老が頷く。

「余裕のある時に自分の魔力を少しずつ入れておけばいい。そして必要になった時に、そこから取り出して使う」

ラディの顔が一気に明るくなった。

さっきまで「棒?」と言っていたのが嘘のようだ。

「どれくらい入るの?」

「かなり入る。ただし、最初から限界まで詰め込むな。しばらくは少しずつ魔力を出し入れして、持ち主の魔力に馴染ませろ」

「分かった!」

ラディは嬉しそうに短棒を眺めている。

俺は笑った。

「急に気に入ったな」

「だって便利じゃん」

「さっき棒って言ってたくせに」

「使い道知らなかったんだから仕方ないじゃん」

「現金な奴だな」

長老も笑った。

「戦う時は腰へ差しておけばいい。魔力が足りなくなった時に握って引き出せ。あるいは戦う前に、自分の中へ必要な分だけ戻しておいてもいい」

ラディは短棒を腰へ当て、どこへ差せば邪魔にならないか試している。

「これも育てたの?」

「ああ」

「何年?」

「十九年だ」

ラディが短棒を見る。

「……僕より年上だ」

「そりゃそうだろ」

俺が言うと、ラディは少し不思議そうに短棒を撫でた。

俺も同じ気持ちだった。

俺たちが生まれるより前から、どこかの森で育てられていた木。

それが今、俺の手には弓となってあり、ラディの手には魔力を蓄える短棒としてある。

旅を始めた頃には、こんなものを持つことになるとは想像もしなかった。

長老が俺たち二人を見る。

「どちらも金を出せば買えるようなものではない。大切に使え」

俺とラディは顔を見合わせ、それから揃って頭を下げた。

「ありがとうございます」

「大事にします」


その日の夕方。

俺たちは村の外れで、新しく手に入れた道具を試していた。

俺は魔力の矢を何本か放ち、込める魔力を変えながら威力を確かめる。

ラディは短棒へ魔力を入れたり、逆にそこから自分の身体へ戻したりしていた。

「兄ちゃん」

「ん?」

「これ、便利だよ」

「そうだな」

「兄ちゃんも欲しい?」

「俺にはこれがあるからいいよ」

俺は新しい弓を構えた。

魔力を流す。

今度はごく少量だけ。

生まれた光の矢を放つと、切り株の表面を浅く抉ったところで消えた。

「今、弱くした?」

「ああ。できるみたいだ」

込める魔力量によって、威力もかなり細かく調節できるらしい。

慣れれば、かなり使い勝手のいい弓になりそうだった。

俺は手の中の弓を眺めた。

もちろん、今まで使ってきた弓にも愛着がある。

村を出てから、ずっと一緒だった。

ヒョルンで魔物を狩り、海を目指し、浮島へ行き、砂漠を越え、大山脈を渡った。

何度も俺とラディを助けてくれた弓だ。

だから捨てるつもりはない。

予備として、これからも持っていく。

ただ、これから一番使うことになるのは、おそらくこの秘木の弓だろう。

隣ではラディが、短棒を腰へ差して具合を確かめていた。

「また装備増えたね」

「ああ」

「次は何もらえるかな」

「報酬目当てで人助けするなよ」

「冗談だって」

ラディが笑う。

俺も笑った。

旅を始めた頃、俺たちが持っていたものは本当に少なかった。

俺には弓。

ラディには剣。

あとは旅に必要な最低限の荷物くらいだ。

それが今では魔法を覚え、異国の言葉まで話せるようになり、こんな不思議な道具まで手にしている。

旅をするたびに、少しずつ何かが増えていく。

道具だけではない。

知識も。

経験も。

知り合った人たちも。

そして、自分の目で見てきた景色も。

俺は新しい弓を背負った。

「さて」

すぐにラディがこちらを見る。

「次、どこ行く?」

「吸血鬼倒したばっかりだぞ」

「でも、ずっとここにいるわけじゃないでしょ?」

「まあな」

俺は西へ続く森を眺めた。

その先にも、俺たちの知らない土地が広がっている。

「もう少しここで休んでから考えよう」

「うん」

俺たちは新しく手に入れた道具を携え、大木の村へ戻っていった。

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