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子供時代

その日も、いつもと何ら変わらない始まり方をした。

朝、俺たちはいつものように家族そろって食卓を囲み、母が昨夜から火にかけていた豆と根菜のスープを皿によそい、少し硬くなった黒パンをそこへ浸しながら、これまで何百回と繰り返してきた何の変哲もない朝食をとっていた。

父は黒パンをちぎりながら時折窓の外へ目をやり、母は空になりかけた俺たちの皿へスープを足し、ラディはまだ眠気が抜けていないのか、半分ほど目を閉じながら何度も大きな欠伸をしている。

「明日から刈り始めるか」

しばらく黙って食事をしていた父がそう言うと、母も手にしていた木匙を止め、窓の向こうに広がる畑へ目を向けた。

「そうね。今日もこれだけ晴れてるし、明日も雨は降らなさそうだものね」

母の言葉につられて俺も窓の外を見ると、朝日に照らされた麦畑は一面が黄金色に染まり、時折吹く風に押されて無数の穂がいっせいに傾くたび、まるで大きな波が畑の端から端まで走っていくように見えた。

今年は比較的天候に恵まれた年だった。

春先にはしばらく雨が降らず、父が何度も空を見上げながら心配そうな顔をしていた時期もあったが、その後は適度に雨も降り、麦も順調に育ってくれたため、少なくとも見た限りでは例年より悪い収穫にはならないだろうと村の大人たちは話していた。

収穫が始まれば、しばらくの間は村中の人間が畑へ出ることになる。

男たちは鎌を振るい、女たちは刈り取られた麦を束ね、俺やラディのような子供も落ち穂を拾ったり、麦束を運んだりしなければならない。

当然、森へ狩りに行くような暇はなくなる。

――今日が今季最後の狩りになるか。

そんなことを考えながら、俺はスープをたっぷり吸って柔らかくなった黒パンを口へ運んだ。

今日は鹿のような大物でなくてもいい。

兎か山鳥でも一羽獲って帰れれば十分だろう。

その時の俺は、そんなことを呑気に考えていた。

朝食を終えると、俺はラディと一緒に牛舎へ向かった。

井戸から汲んだ水を桶に入れて何度か往復し、牛へ乾草を与え、夜の間に汚れた藁を木の鋤で掻き集めて外へ運び、新しい藁へ取り替えていく。

毎朝繰り返している、いつもの仕事だった。

「兄ちゃん、こっちの桶は俺が持つ」

ラディがそう言って小さな桶を両手で持ち上げたので、俺は少し心配になって横目で見ていた。

昔は水を半分入れただけでも持ち上げられずに泣きそうになっていた弟も、今では身体を左右に揺らしながらとはいえ、自分一人で牛舎まで運べるようになっている。

「お前も少しは大きくなったな」

思わずそう口にすると、ラディは桶を抱えたまま不満そうに眉を寄せた。

「少しじゃないよ。もう十歳だよ」

「十歳ならまだ子供だろ」

「兄ちゃんだって十二歳じゃん」

「二歳も違う」

「二歳しか違わない」

言い返されてみれば、その通りだった。

だが、物心ついた頃からいつも俺の後ろについてきたラディを見ていると、どうしても俺の中では小さな弟のままだ。

それが可笑しくて笑うと、ラディは何を笑っているのかと、ますます不満そうな顔をした。

水を運び終え、牛へ乾草を配り、牛舎の掃除をしていると、ラディが汚れた藁を外へ運びながらこちらを振り返った。

「兄ちゃん、今日も森行くの?」

「ああ。明日から麦刈りだから、しばらく行けなくなるしな」

「鹿獲ってくる?」

「そう簡単に毎回鹿が獲れるなら苦労しない」

「じゃあ兎?」

「運が良ければな」

「肉食べられる?」

「結局そこかよ」

俺が呆れて言うと、ラディは悪びれもせずに笑った。

俺もつられて笑った。

牛の世話を終えて家へ戻ると、俺は壁際に立てかけてあった新しい弓を手に取り、木の表面を指先でなぞりながら、ひびや歪みが出ていないかを慎重に確認した。

この弓は、古い弓を参考にしながら自分で作ったものだった。

材料にする木を選ぶところから始め、伐った後は十分に乾燥するまで待ち、それから左右の厚さを少しずつ削った。

弦を張っては曲がり具合を確認し、片側だけが強く曲がればまた削る。

そんな作業を何度も繰り返し、つい先日、ようやく実際に使えるところまで仕上がった。

昨日は村の外で藁束を相手に試し射ちをしてみた。

古い弓よりも引きが強く、矢の飛び方も素直だった。何より、自分で作ったものだけあって手に馴染みやすい。

今日はぜひ実際の獲物を相手に試してみたいと思っていた。

俺は弦を軽く指で弾いた。

びん、と低い音が響く。

問題はなさそうだ。

腰へ剣と解体用のナイフを下げ、水袋と縄を持ち、胡簶に入った矢の鏃や羽根に異常がないか一本ずつ確かめる。

最後に獲物を運ぶための背負子を背負えば、準備は終わりだった。

「行ってきます」

玄関から声をかけると、母は家の奥で片付けをしながらこちらを振り返り、いつもと同じ柔らかい声で返した。

「気をつけてね。あまり森の奥まで行かないのよ」

「分かってるよ」

「暗くなる前には戻れ」

家の前で鎌の刃を確かめていた父もそう言ったので、俺は軽く手を上げて答えた。

「分かった」

するとラディが慌てたように玄関から顔を出した。

「兄ちゃん!」

「なんだよ」

「肉!」

「分かった分かった。何か獲れたらな」

「絶対だよ!」

「そんなの獲物に言ってくれ」

そう言うと母が笑い、ラディも笑った。

父も呆れたようにこちらを見ながら、ほんの少しだけ口元を緩めていた。

俺はそれを見て笑い返し、そのまま家に背を向けて歩き出した。

村を出ると、朝日に照らされた麦畑が左右いっぱいに広がっていた。

まだ少し湿った土の道を歩く俺の横で、熟した麦穂が風を受けてさらさらと乾いた音を立てている。

明日になれば父を先頭に村の男たちが鎌を持って畑へ入り、その後ろでは母たちが刈り取られた麦を束ね、俺やラディも一日中畑を駆け回ることになるのだろう。

収穫の間は大変だが、俺は嫌いではなかった。

一日の終わりには皆で畑の端に座って飯を食い、すべての収穫を終えれば、村の広場で酒や料理が振る舞われる。

普段は口数の少ない父も、その日だけは少し機嫌よく酒を飲む。

今年も同じようになるのだと、俺は何の疑いもなく考えていた。

麦畑を抜け、森の中へ入る。

背の高い木々が太陽を遮った途端、外よりも空気がひんやりと感じられた。

鼻を澄ませば、湿った土と落ち葉、樹皮や苔の混じった森特有の匂いがする。

頭上では山鳥が鳴き、茂みの奥では何か小さな動物が逃げていく音が聞こえる。

俺は足音を立てすぎないよう注意しながら、時折地面へ目を落として、新しい足跡や糞がないかを探していった。

今日は今季最後なのだから、少しくらい奥まで入ってもいいかもしれない。

そう思う一方で、新しい弓を試すだけなら浅い場所でも十分だった。

昼頃までに兎か山鳥を一羽でも仕留められれば、そのまま早めに帰って明日の麦刈りに備えよう。

そう考えながら歩いていた時だった。

何か低い音が、遠くから聞こえたような気がした。

俺は足を止めた。

だが森の中では、風に揺れる木々や鳥の羽音、獣が茂みを抜ける音など、様々な音が絶えずしている。

気のせいか。

そう思って、もう一度歩き出そうとした。

その直後だった。

どどどどどどっ――。

今度は、はっきりと聞こえた。

俺はその場で立ち止まり、呼吸まで抑えて耳を澄ませた。

低く響く音とともに、足元の地面が本当に僅かだが震えている。

最初は猪の群れかと思った。

だが、それにしては音が規則的すぎる。

それに、地面へ伝わってくる振動の数が多すぎた。

一頭や二頭ではない。

十頭。

いや、それ以上。

何十頭という数の蹄が、一斉に地面を蹴っている音だった。

「……なんだ?」

俺は眉を寄せ、音の方向を確かめるように顔を上げた。

森の奥ではない。

これから俺が進もうとしていた方角でもない。

音は背後から聞こえている。

そして、その方向にあるものは一つしかなかった。

「……村?」

その言葉を口にした瞬間、理由も分からないのに胸の奥へ冷たいものが落ちた。

俺は急いで少し開けた場所まで移動すると、木々の枝葉の隙間から村の方角へ目を凝らした。

葉に遮られて家々までは見えない。

しかし、空なら見えた。

青く晴れ渡った空の中へ、不自然な黒い筋が一本伸びている。

「……煙?」

目を細める。

一本ではない。

その横にも一本。

少し離れた場所にも。

さらに奥にも。

黒煙が何本も立ち上り、風を受けて同じ方向へ流れていた。

火事。

村で火事が起きている。

そう理解するまでに、ほんの数秒しかかからなかったはずなのに、なぜかその数秒がひどく長く感じられた。

頭の中が真っ白になった。

何を考えればいいのかすら分からない。

だが次の瞬間には、身体が勝手に動いていた。

「父さん……母さん……ラディ!」

弓を握ったまま踵を返し、来た道を全力で走る。

顔の前へ張り出していた枝が頬へ当たり、細い枝が皮膚を引っ掻いた。

そんなものに構っている余裕はない。

足元の根を飛び越え、落ち葉に足を取られそうになりながらも、とにかく村へ向かって走り続けた。

胸が激しく上下する。

すぐに呼吸が苦しくなり、肺の奥が焼けるように痛み始めた。

それでも足を緩めることはできなかった。

火事だけなら大丈夫だ。

村には大勢いる。

皆で消せばいい。

そう考えた直後、さっき聞いた蹄の音が頭へ浮かんだ。

あれは何だった。

村の牛が逃げたのか。

いや、あんな数の牛はいない。

馬だとしても多すぎる。

――盗賊。

その言葉が頭に浮かんだ。

だが、村には自警団がいる。

父も武器を扱える。

大丈夫だ。

まだ何が起きたと決まったわけじゃない。

大丈夫。

大丈夫だ。

そう何度も自分へ言い聞かせた。

だが、森の隙間から時折見える黒煙の量は、明らかに一軒や二軒の火事ではなかった。

胸の中に生まれた嫌な予感は、村へ近づくほど大きくなっていった。

やがて森の出口が見えた。

木々の向こうが急に明るくなる。

あと少し。

あと少しで村が見える。

俺は最後の茂みを腕で払い除け、森の外へ飛び出した。

そして足が止まった。

「……っ」

村が見えた。

だが、それは俺の知っている村ではなかった。

何軒もの家から黒煙が立ち上っている。

場所によっては屋根から赤い炎が噴き上がり、村を囲んでいた木柵の一部は、外側から押し倒されたように大きく崩れていた。

門の前には何かが倒れている。

人だ。

一人ではない。

その向こうにも。

道の上にも。

家の前にも。

何人もの人間が倒れていた。

「……嘘だろ」

声が勝手に漏れた。

門をくぐった直後、最初に目へ飛び込んできたのは、道端へ仰向けに倒れた男だった。

頭の一部が大きく陥没している。

何か鈍く重いもので力任せに殴られたのだろう。頭蓋の形が明らかに歪み、その下の地面には黒ずみ始めた大量の血が広がっていた。

俺は思わず視線を逸らした。

だが、その先にも死体があった。

首を切られた男。

畑仕事をしている時によく父へ話しかけていた人だった。

俺にも何度か仕事を手伝わせながら、「村長の息子ならもっと働け」と笑っていた。

そのすぐ横には女が倒れていた。

胸元には、小さな少女が覆いかぶさるように倒れている。

少女の胸には深い刺し傷があり、もう息をしていないことは遠目にも分かった。

それでも、その小さな手だけは母親の服を強く握ったまま離れていなかった。

逃げようとしたのか。

母親にしがみついていたのか。

それとも、母親を守ろうとしたのか。

分からない。

分かりたくもなかった。

俺は走った。

道の途中に少年が倒れていた。

背中を肩から腰まで大きく斬られている。

逃げようとしたところを後ろから斬られたのだと、倒れている向きだけでも想像できた。

知っている顔だった。

小さい頃から何度も一緒に遊んだ。

夏には川で泳いだ。

俺が教えた草笛を、誰より早く鳴らせるようになった奴だった。

去年からは一緒に自警団の木剣を振っていた。

その目は大きく開いたままで、たまたま俺の方を向いていた。

「……嘘だろ」

足が止まりそうになった。

名前を呼びそうになった。

だが、今は駄目だ。

家へ。

家族のところへ行かなければならない。

俺は無理やり前へ視線を戻した。

少し先では老人が家の壁にもたれたまま死んでいた。

両腕が肘より上から失われ、身体の横には大量の血がこびりついている。

開かれた目だけが、何かを訴えるように空を見つめていた。

その向こうでは一軒の家の戸が壊され、開いた入口から室内が見えていた。

ゆりかごがある。

中に赤子がいた。

動いていない。

二日前に生まれたばかりだった。

昨日、母が夕食の時に「元気な男の子だったわよ」と笑いながら話していた赤子だった。

「うっ……」

胃の中のものが一気に込み上げた。

俺は口元を押さえながら道の端へよろめいた。

朝食に食べた黒パンとスープの味が喉の奥まで戻ってくる。

だが、吐いている暇などない。

「ラディ……!」

口元を袖で乱暴に拭い、再び走り出す。

ようやく自分の家が見えた。

屋根は燃えていない。

壁もある。

戸も残っている。

そのことに、ほんの一瞬だけ安堵した。

家がある。

なら、父も母もラディも無事かもしれない。

そう思った。

だが、玄関の前に誰かが座っている。

壁にもたれかかるように、力なく身体を預けている。

近づくほど、その姿がはっきりしていった。

「……父ちゃん?」

次の瞬間には走っていた。

「父ちゃん!」

父だった。

全身が血に濡れていた。

服の元の色が分からなくなるほど赤黒く染まり、地面にはすでに大量の血が広がっている。

そして。

右腕がなかった。

肩口から先が、丸ごと切り落とされていた。

一瞬、何を見ているのか理解できなかった。

今朝まで父には右腕があった。

飯を食う時に黒パンを持っていた。

家の前で鎌の刃を確かめていた。

当たり前にそこにあった腕が、今はない。

「父ちゃん! 今助ける!」

俺は背負子を放り投げるように地面へ落とし、腰に巻いていた布を乱暴に外して父の肩へ押し当てた。

止血。

まず血を止める。

前世で何か読んだ。

圧迫する。

血を止める。

何でもいい。

今できることをやれ。

「父ちゃん、しっかりして!」

布へすぐに血が滲んだ。

温かい。

まだ生きている。

「……ギャザン」

父が俺の名を呼んだ。

弱い声だった。

いつもの父の声とは思えないほど小さく、息と一緒に漏れただけのような声だった。

「喋らないで!」

「よく……聞きなさい」

「後で聞く! 今止血するから!」

俺は布をさらに強く押し当てた。

「大丈夫だから!」

自分でも嘘だと分かっていた。

それでも口にし続けた。

大丈夫。

止血すれば。

町へ運べば。

薬師がいれば何とかなる。

何とかなるはずだ。

「ギャザン」

父は静かに俺を呼んだ。

「俺は……もう助からん」

「何言ってんだ!」

声が裏返った。

「助かるよ!」

「無理だ」

「止血すれば――」

「腹も……やられた」

父の言葉に、俺は初めて視線を下へ向けた。

「……え?」

父の下腹が真っ赤だった。

服は大きく裂け、その下には深い傷がある。

そこから流れ出した大量の血が腰や脚を伝い、地面へ広がっていた。

さっきまでは右腕しか見えていなかった。

だが、これは。

助からない。

医学の知識なんて必要なかった。

血を失いすぎている。

「……いやだ」

自分でも驚くほど幼い声が出た。

「嫌だよ」

父がこちらを見る。

その目にはもう、いつも俺を叱る時や、村人たちへ指示を出す時にあった力強さがほとんど残っていなかった。

「ギャザン」

「誰にやられた!」

俺は突然叫んだ。

父が死ぬということを考えたくなかった。

だから、別のことを聞いた。

「誰がやったんだ!」

父はそれには答えず、残っている左腕をゆっくりと持ち上げ、俺の腕を掴んだ。

その手は、信じられないほど弱かった。

昔は俺が両腕を使って引っ張ってもびくともしなかった腕。

大きな石を一人で持ち上げ、牛が暴れれば力ずくで押さえ込んだ父の手が。

今では少し力を入れれば振りほどけそうだった。

「お前は……お前のしたいように生きなさい」

「……何言ってるんだよ」

「俺や母さんの仇を討とうなんて……考えなくていい」

「だから、そういうこと言うなよ!」

「生きろ」

「父ちゃん!」

父の呼吸がさらに浅くなる。

それでも俺の腕を掴んだ手だけは、最後の力を使うように僅かに強くなった。

「ラディを……頼む……」

「父ちゃん?」

手から力が抜けた。

俺の腕を掴んでいた指が滑り落ちる。

「父ちゃん」

返事がない。

「父ちゃん!」

肩を揺らす。

身体が力なく動くだけだった。

「父ちゃん!」

その時だった。

ぎい。

家の中から、小さな音がした。

俺は反射的に振り返った。

戸棚の扉が、ほんの少しずつ開いていく。

隙間から小さな顔が見えた。

「……兄ちゃん?」

「ラディ!」

生きている。

その事実だけで、胸の奥に絡みついていたものが一瞬だけほどけた。

俺は立ち上がり、戸棚へ駆け寄った。

「ラディ! 無事だったか!」

「う、うん……」

戸棚から出てきたラディの顔は青ざめ、目の周りには泣いた跡が残っていた。

だが、見たところ血もついておらず、大きな怪我もしていない。

俺は肩、腕、顔と順番に確かめ、ようやく少しだけ息を吐いた。

「父ちゃんと母ちゃんは?」

ラディが聞いた。

胸の奥が詰まる。

「父ちゃんは……」

言葉が出なかった。

「母ちゃんはどこだ?」

「母ちゃんは、俺を戸棚に入れて、絶対に出るなって言って」

「それから?」

「裏口から出ていった」

「裏口……」

また胸の奥へ冷たいものが落ちた。

俺は立ち上がり、裏口へ向かった。

戸へ手をかける。

開く。

そしてそこにあったものを見た。

「……母さん?」

母が倒れていた。

いや。

最初はそう思った。

だが。

身体から少し離れたところに。

母の首があった。

地面には大量の血が広がり、その血溜まりの中へ母の髪が浸かっている。

今朝。

「気をつけてね」

そう言った顔。

昨日まで歌を歌っていた口。

ラディを叱り、俺を笑い、父へ話しかけていた母の顔。

それが今は、身体から離れた場所にある。

何も言えなかった。

泣くことさえできなかった。

俺はただ立っていた。

時間が止まったようだった。

これが母だと頭では分かる。

でも理解できない。

昨日まで生きていた。

今朝もいた。

俺が家を出た時には確かにいた。

なのに、もういない。

どれほどそうしていたのか分からない。

数秒だったのか一分だったのか、もっと長かったのか。

その時。

どどっ、どどっ。

遠くから蹄の音が聞こえた。

今度は近い。

「兄ちゃん……?」

ラディの声が聞こえた。

俺は一瞬で現実へ引き戻された。

「隠れろ」

「え?」

「家の中へ入れ!」

声を抑えながらラディを家へ戻し、俺も戸の陰へ身を寄せて、壁の隙間から外の様子を窺った。

道の向こうから三頭の獣が近づいてきていた。

灰色の剛毛に覆われ、馬よりも背は低いが、身体つきは遥かに太い。

口元からは湾曲した長い牙が突き出している。

ポルットと呼ばれる獣だった。

荒い鼻息を吐くたびに大きな胸が上下し、太い脚が土を踏みしめるたび、先ほど聞いたものと同じ重い蹄音が響いている。

その背中に乗っている者たちは、人間ではなかった。

背は低いが肩幅が広く、身体は岩の塊のように太い。

三人とも重そうな鎧を身につけ、長く伸ばした顎髭を左右に分けて編み込んでいた。

ドワーフだ。

三人は急ぐ様子もなく村の道を進み、時折家の前で止まっては中を覗き込み、何かを見つけるたびに互いに聞いたことのない言葉で話していた。

生き残りを探している。

直感でそう分かった。

「ラディ」

俺は弟の肩を掴み、小さな声で言った。

「なに?」

「これから何があっても声を出すな」

ラディの顔が強張った。

「怖くても、俺が何をしても絶対に声を出すな。約束できるか?」

ラディは唇を震わせていたが、それでもしっかりと頷いた。

「うん」

少し間を置いて、ラディが小さく聞いた。

「父ちゃんは?」

胸が痛んだ。

「後で話す」

「母ちゃんは?」

「それも後でだ」

ラディは何も言わなかった。

普段なら何度でも聞き返す弟が、ただ一度頷いただけだった。

「いいか。家を出たら森まで走れ」

「兄ちゃんは?」

「俺も行く」

半分だけ嘘だった。

俺も森へ行く。

必ず行く。

だが、ラディと同時に逃げることはできない。

三人に見つかれば、十歳のラディがポルットから逃げ切れるはずがない。

誰かが足止めしなければならない。

そして今ここにいるのは、俺しかいなかった。

「森の中の小さな祠、分かるだろ?」

「うん」

「そこで待ってろ。俺も必ず行く」

「分かった」

俺は一度だけラディの頭を撫でると、急いでかまどの方へ向かった。

今、持ち出すべきもの。

金。

武器。

食べ物。

全部は無理だ。

頭を働かせろ。

かまどの裏へ手を入れ、壁との狭い隙間から父が隠していた木箱を引っ張り出した。

蓋を開ける。

中には銀貨と銅貨が入っていた。

我が家の蓄え。

父と母が何年もかけて貯めた金だ。

俺はそれを革袋へ全部詰め込み、ずっしりと重くなった袋を腰へ結んだ。

次に神棚へ向かう。

そこには、我が家で代々祀られてきた小さな鏡がある。

生きるためだけなら必要ない。

そんなものを持っていくより、食料を一つでも多く持った方がいい。

頭では分かっていた。

それでも、置いていけなかった。

この家を。

父を。

母を。

全部置いていかなければならない。

だから、せめてこれだけは。

俺は鏡を神棚から取り、服の内側へ大切に入れた。

そして胡簶へ手を伸ばし、矢を一本抜き取った。

その瞬間だった。

「やめて!」

隣家から女の悲鳴が聞こえた。

いや、声からして老婆だ。

俺は壁の隙間へ顔を寄せた。

一人の老婆が髪を掴まれ、家の中から外へ引きずり出されている。

知っている。

小さい頃から俺とラディを見るたびに、時々焼き菓子をくれた老婆だった。

自分の家だって決して裕福ではないのに。

「母ちゃんには内緒だよ」

そう言って、ほんの少し甘い焼き菓子を手へ乗せてくれた。

老婆は地面へ膝をつき、泣きながら何かを訴えている。

助けてくれ。

殺さないでくれ。

たぶん、そんなことだろう。

だがドワーフには言葉が通じていないのか。

あるいは、通じていたとしてもどうでもいいのか。

三人は何かを話した。

聞いたことのない言葉。

ドワーフ語。

そして、笑った。

一人が老婆の髪をさらに強く引き上げる。

もう一人が剣を持ち上げた。

俺は動けなかった。

剣が振られた。

老婆の首が落ちた。

身体が少し遅れて地面へ倒れる。

どさり。

ドワーフたちはまた何かを話した。

笑っていた。

胸の奥が、急に冷たくなった。

怒りで熱くなるのではない。

逆だった。

何かが、すっと冷えていく。

怖い。

今すぐ逃げたい。

それでも、それ以上にはっきりと思った。

こいつらは敵だ。

今しかない。

三人の視線は、倒れた老婆へ向いている。

俺はラディの肩を掴んだ。

「ラディ」

「うん」

「三つ数えたら走れ」

ラディが頷く。

俺は弓へ矢をつがえた。

「三」

新しい弓の握りが掌へ馴染む。

「二」

ゆっくりと弦を引く。

木がしなる。

「一」

呼吸を止める。

狙う。

「走れ!」

戸を蹴るように開けた。

ラディが飛び出す。

俺も続いて外へ出た。

三人のドワーフがこちらを見る。

一人の目が驚きに見開かれた。

遅い。

俺はもう弓を引き絞っている。

狙いは顔。

放つ。

矢が風を切った。

次の瞬間、鏃がドワーフの眉間へ深々と突き刺さった。

頭が後ろへ跳ね、身体がぐらりと傾く。

そのまま力なくポルットの背から地面へ落ちた。

「行け!」

俺はラディへ叫んだ。

ラディは振り返らなかった。

そのまま森へ向かって走る。

よし。

それでいい。

残り二人。

一人が怒声を上げた。

言葉は分からない。

だが、仲間を殺された怒りだということだけは分かった。

そいつはポルットの脇腹を踵で蹴り、俺へ向かって猛然と突進してきた。

「くそ!」

二本目。

矢をつがえなければ。

だが、間に合わない。

ポルットは想像していたよりもずっと速かった。

太い脚で地面を蹴るたびに土を跳ね飛ばし、長い牙を前へ突き出しながら一気に距離を詰めてくる。

その背ではドワーフが剣を振り上げていた。

俺は横へ飛ぼうとした。

間に合わない。

咄嗟に身体を低くし、そのまま地面へ前転する。

肩から転がったすぐ横をポルットが駆け抜け、その牙が俺の服の端を僅かに掠めた。

土と埃が顔へ飛ぶ。

口の中に砂が入った。

それでもすぐに起き上がり、胡簶から矢を抜いて弦へつがえる。

ドワーフが手綱を引き、ポルットをこちらへ向け直そうとしていた。

俺は弓を引いた。

放つ。

矢はドワーフの胸へ命中した。

だが。

かんっ。

乾いた金属音が響き、矢が鎧へ弾かれた。

「くそっ!」

効いていない。

その時、背後から足音が聞こえた。

振り返る。

もう一人。

さっきまで騎乗していたドワーフが、いつの間にかポルットから降り、剣を片手にこちらへ走ってきている。

前から騎乗したドワーフ。

後ろから徒歩のドワーフ。

挟まれた。

胸の鼓動が急激に速くなる。

手が震える。

喉が乾く。

逃げたい。

怖い。

頭の中へそんな言葉が次々と浮かぶ。

これは自警団の訓練じゃない。

木剣でもない。

相手は俺が倒れたら止めてくれない。

負ければ死ぬ。

本当に殺される。

でも。

森の向こうにはラディがいる。

あいつは俺を待っている。

俺が死んだら一人になる。

「……やるしかない」

自分へ言い聞かせるように、小さく呟いた。

矢をつがえる。

騎乗したドワーフが、もう一度こちらへ向かってくる。

胸は鎧だから駄目だ。

なら首。

俺は弓を引き絞った。

ポルットが近づく。

十歩。

まだ。

八歩。

まだ。

六歩。

今。

放つ。

矢が一直線に飛び、ドワーフの首へ深々と突き刺さった。

「――ッ!」

ドワーフが目を見開き、首へ手を当てる。

口が開いた。

ごぼっ、と何か液体が詰まったような音がする。

手綱から手が離れ、身体が横へ傾き、そのまま地面へ落ちた。

二人目。

そう思った瞬間、背後に気配を感じた。

俺は反射的に振り返る。

剣が来る。

弓を捨て、腰の剣を抜いた。

がんっ!

刃同士がぶつかった。

腕へ強烈な衝撃が走る。

「っ!」

重い。

想像していたより遥かに重い。

もう一撃。

俺は剣を立てて受ける。

がんっ!

身体ごと押された。

足が一歩下がる。

自警団の大人たちとは違う。

訓練なら、俺が受けきれないと分かれば力を抜いてくれる。

打ち込む場所も考えてくれる。

このドワーフには、それがない。

本気だ。

一撃一撃、俺を斬るために。

俺を殺すために。

全体重を剣へ乗せている。

「うあっ!」

横薙ぎを避ける。

だが、間に合わなかった。

顔へ熱が走った。

右目の上。

眉の辺りを切られた。

血が流れ、すぐに右目へ入り、視界が赤く滲む。

「くそっ!」

拭う暇はない。

次の剣。

受ける。

また下がる。

一歩。

二歩。

肘から先が痺れ、握っている指の感覚まで薄くなってくる。

ドワーフは休まない。

息は荒い。

それでも剣を振る。

俺は受ける。

下がる。

また受ける。

さらに下がる。

その時、踵が何かへ当たった。

「え?」

父の脚だった。

足を取られ、俺はその場へ尻もちをついた。

「しま――」

ドワーフが剣を振り上げる。

その背後に太陽が見えた。

俺は咄嗟に剣を両手で横へ構えた。

ぎんっ!

耳の奥まで響く音。

腕が震える。

ドワーフはそのまま剣へ体重を乗せてくる。

重い。

俺の剣が少しずつ下がっていく。

自分の刃が、自分の首へ近づいてくる。

「ぐ……っ」

腕へ力を入れる。

戻らない。

少し。

また少し。

剣が下がる。

首へ刃が触れた。

一瞬、冷たい。

次の瞬間には皮膚が切れ、血が流れた。

死ぬ。

その言葉が頭へはっきり浮かんだ。

――ラディ、ごめん。

そう思った、その時だった。

ドワーフの身体がびくりと揺れた。

「……?」

押し込まれていた力が僅かに弱くなる。

ドワーフが横を見た。

俺も見る。

「父……さん?」

父が動いていた。

死んだと思っていた。

呼びかけても返事をせず、呼吸さえ止まったように見えた父が。

残った左手にナイフを握っている。

父は最後の力で上体を僅かに持ち上げ、ドワーフの鎧の隙間――脇腹へナイフを深々と突き立てていた。

「――!」

ドワーフが絶叫した。

剣へかかっていた力が消える。

その瞬間、俺は剣を押し返した。

身体を捻り、力の限り振り抜く。

刃がドワーフの首元へ食い込んだ。

ドワーフの身体がぐらりと揺れ、その場へ崩れ落ちた。

「父さん!」

すぐに振り返る。

父は再び地面へ倒れていた。

顔色はさっきよりも白い。

「父さん!」

駆け寄る。

「行け……」

「でも!」

「行け……!」

声はもう、ほとんど聞こえなかった。

「ラディを……」

父の目が閉じかけている。

俺には何もできない。

分かっている。

それでも、その場を離れたくなかった。

「……必ず」

声が震える。

「必ずラディを守ります」

父が俺を見た。

ほんの少しだけ目が動いた。

そして、口元が僅かに上がったように見えた。

それから父は、もう動かなかった。

「……父さん」

返事はない。

今度こそ、もう呼吸もしていなかった。

俺はしばらく父を見つめていた。

やがて俺は立ち上がった。

玄関先に横たわる父。

裏口の向こうで冷たくなっている母。

二人へ一度だけ、深く頭を下げた。

喉の奥に込み上げてくるものを無理やり飲み込む。

そして、朝と同じ言葉をもう一度だけ口にした。

「……行ってきます」

朝なら母が「気をつけてね」と返してくれた。

父が「暗くなる前には戻れ」と続けてくれた。

今度は、どれだけ待っても誰からも返事はなかった。

聞こえてくるのは、遠くで燃える家の音と、風に揺らされた木々の葉擦れだけだった。

俺は最後に一度だけ振り返った。

血に濡れた父の姿。

裏口の向こうにいる母。

生まれてから十二年間暮らしてきた家。

もう二度と、この形では見ることができない。

そう思いながら、そのすべてを忘れないよう目に焼きつけた。

そして唇を噛み、踵を返した。

ラディの待つ森へ向かって、俺は走り出した。

右目の上にできた傷は、脈打つたびにずきずきと痛んだ。

流れる血がまだ頬を伝っている。

首にも剣で切られた浅い傷が残り、何度も剣を受け止めた両腕には重い痺れが残っていた。

だが、今はそんなことに構っている余裕はない。

ラディが待っている。

一刻も早く、あの祠へ辿り着かなければならない。

その思いだけで足を動かし続けた。

森へ入ると、低く伸びた枝が何度も顔や肩へ当たり、足元では根や落ち葉が走る邪魔をした。

それでも速度を落とさない。

枝を腕で払い、滑りそうになる足を必死に立て直しながら奥へ進んでいく。

どれほど走ったのか分からない。

いつもなら村から祠までの距離など身体で覚えているはずなのに、その時の俺には時間の感覚も距離の感覚もほとんどなかった。

ただ木々の間を抜け続けた。

そしてようやく、苔むした小さな石の祠が見えた。

胸の奥に張り詰めていたものが、僅かに緩んだ。

祠の脇には小さな人影が座っていた。

膝を抱え込み、俯いたまま地面を見つめている。

「ラディ!」

俺が叫ぶと、その人影が勢いよく顔を上げた。

「兄ちゃん!」

ラディは俺の姿を確認するなり立ち上がり、そのままこちらへ走ってきた。

俺も残っている力を振り絞るように駆け寄る。

互いの身体がぶつかる勢いで抱き合った。

「兄ちゃん!」

「ラディ!」

俺は何も考えず、ただ目の前にいる弟が本当に生きていることを確かめるように、細い身体へ両腕を回して力いっぱい抱き締めた。

腕の中には確かな体温がある。

胸に押しつけられた身体は、呼吸に合わせて上下している。

小さな手は、俺の服をしっかりと掴んでいた。

生きている。

ちゃんとここにいる。

それだけで、父と母を失ってからずっと張り詰めていたものが一気に崩れそうになった。

「兄ちゃん……痛い」

「……ごめん」

そう言われて初めて、強く抱き締めすぎていたことに気づいた。

俺は少しだけ腕の力を緩めた。

それでも完全に離すことはできなかった。

一度手を放せば、また誰かに奪われてしまう。

そんな馬鹿げた恐怖が、胸の奥に残っていたからだ。

「兄ちゃん、血が出てる」

ラディは俺の顔を見上げると、右眉の辺りへ目を向けて不安そうに顔を曇らせた。

「大丈夫だ」

「でも、目のところ、いっぱい血がついてる」

「見た目ほど深くない。それより、お前はどこも怪我してないか?」

「うん……でも兄ちゃん、首も血が出てる」

「これくらい平気だよ」

そう答えながらも、実際には右目は流れ込んだ血のせいでまだ霞み、首の傷も汗が入るたびにひりひりと痛んだ。

それでも今こうして自分の足で立つことができ、ラディも無事なのだから、それだけで十分だった。

ラディは俺の服を掴んだまま、しばらく何も言わなかった。

俺も何を言えばいいのか分からない。

二人で黙ったまま森の中に立っていた。

頭上では鳥がいつも通り鳴いている。

風が木々の間を通り抜けるたび、葉がさらさらと擦れ合う。

遠くでは虫の声まで聞こえていた。

村では何十人もの人間が死んだ。

父も母も殺された。

俺自身も、ついさっき三人のドワーフを殺したばかりだ。

それなのに森は、そんなことなど何一つ知らないように、昨日までと変わらない音を立てていた。

そのことが、腹立たしくもあり、悲しくもあった。

しばらくして、俺の胸元へ顔を伏せていたラディが、本当に小さな声で言った。

「父ちゃんと母ちゃんは?」

その問いが来ることは分かっていた。

いつかは伝えなければならないことも。

それでも実際に聞かれると、俺はすぐには答えられなかった。

口を開いたまま、何度か息を吸う。

父の失われた右腕。

腹の深い傷。

最後に見せた僅かな笑み。

母の首。

血に濡れた髪。

朝まで生きていた二人の姿が、一度に頭の中へ蘇った。

それを十歳の弟へ、どう伝えればいいのか分からなかった。

死んだ。

殺された。

そんな言葉を、そのまま口にすることができない。

けれど、誤魔化すこともできなかった。

「……駄目だった」

結局、俺の口から出たのはそれだけだった。

ラディの身体が僅かに固まった。

俺の服を掴んでいた指も、そのまま動かなくなる。

しばらく何も言わずに俯いていた。

やがて意味を理解したのか、下唇を強く噛みながら小さく答えた。

「……そう」

泣かなかった。

両手を強く握り込み、爪が掌へ食い込むほど力を込めながら、それでも涙を零さないよう必死に耐えていた。

「ラディ」

俺は昔から何度もそうしてきたように、弟の頭へ手を置いた。

ゆっくりと撫でながら言う。

「泣いていいんだぞ。無理して我慢しなくていい」

だがラディは、俺の胸元へ顔を伏せたまま、ゆっくりと首を横に振った。

「泣かない」

「……そうか」

「兄ちゃんがいるから」

その言葉に、俺は返事ができなかった。

ラディは俺の服をさらに強く掴みながら、震える声で続けた。

「兄ちゃんがいるから……大丈夫」

大丈夫なわけがない。

父も母もいなくなった。

生まれ育った村も、もう元の姿には戻らないかもしれない。

昨日まで当たり前にあったものを、俺たちはほんの数刻の間にほとんど失ってしまった。

それでも俺は、その言葉を否定することができなかった。

俺自身も泣かなかった。

いや。

泣けなかった。

もし今ここで一度でも涙を流せば、胸の奥へ無理やり押し込んでいる父や母や村人たちの死が一気に溢れ出し、その場へ崩れ落ちて二度と立ち上がれなくなるような気がした。

父と約束したばかりだった。

ラディを守ると。

なら、今はまだ泣く時ではない。

俺はしばらくラディの頭を撫でたあと、右目に入った血を袖で拭いながらゆっくりと立ち上がった。

「行こう」

ラディが俺を見上げた。

「どこに?」

「ロムコだ」

ロムコはこの辺り一帯を治める子爵がいる町で、村から街道を通ればそれほど遠くはない。

城壁で囲まれ、子爵に仕える兵士や役人も置かれている。

村で何が起きたのかを知らせなければならない。

俺たち以外にも森や畑へ逃げ延びた者がいるかもしれない。

まだ村のどこかに生存者が残っている可能性だってある。

何より、このままドワーフたちが別の村へ向かうのであれば、一刻も早く領主へ知らせる必要があった。

「子爵様のところまで行く。村が襲われたことを知らせれば、兵士を出してくれるかもしれない」

「街道から行くの?」

「いや、街道は使わない」

俺は首を振り、森へ入った直後に聞いた大量の蹄音を思い出した。

俺が倒した三人だけで村一つをあんな状態にできるはずがない。

少なくとも何十人か。

多ければ、それ以上のドワーフが周辺にいると考えたほうがいい。

「森に入った時、村の方から何十頭分もの蹄の音を聞いた。あの三人だけじゃないし、どこにいるかも分からない。街道へ出たら見つかるかもしれない」

「じゃあ、どうするの?」

「しばらく森の中を進んで、村から十分離れてからロムコの近くで街道へ出る。少し遠回りになるけど、そのほうが安全だ」

ラディは少し考えるように俯いたあと、短く頷いた。

「……分かった」

普段のラディなら、こんな話をすればまず「どれくらい歩くの」と聞いただろう。

少し進めば「疲れた」と言い、その後には「お腹減った」「まだ着かないの」と何度も訴えてきたはずだ。

けれど、今のラディは何も言わなかった。

ただ俺の言ったことを受け入れるように、「分かった」と答えただけだった。

その変化が、俺にはたまらなく悲しかった。

ほんの数刻前まで、肉が食べたいと騒ぎながら笑っていた弟が、もうそんなわがままさえ言えなくなっている。

「ラディ」

「なに?」

「俺から離れるなよ。何があっても、絶対にだ」

「うん」

俺は差し出された弟の手を握った。

十歳になったラディの手は、六年前と比べればずいぶん大きくなっていた。

それでも、俺の掌の中に収まってしまうほど小さい。

その手に触れた瞬間、高熱を出して寝込んでいた六歳の俺の手を、四歳だったラディが泣きそうな顔で握っていた夜のことを思い出した。

「兄ちゃん、死なない?」

あの時、そう尋ねながら俺の手を離さなかったのはラディだった。

あの夜は、俺が守られていた。

だから今度は、俺が守る番だ。

父も最後に言った。

ラディを頼む、と。

俺はそれに、必ず守ると答えた。

もう父も母もいない。

村へ戻ることもできない。

これから何が起きるのかも分からない。

それでも、ラディだけは生きている。

ならば、俺にはまだやるべきことがある。

俺は腰の剣がきちんと鞘に収まっていることを確かめた。

胡簶に残っている矢の本数を数える。

腰に結びつけた革袋も確認する。

そして、弟の手をもう一度強く握り直した。

「行くぞ」

「うん」

俺たちは手を繋いだまま、森の奥へ歩き始めた。

この日を境に、俺はもう父と母に守られながら村で暮らすただの少年ではいられなくなった。

この日、俺の子供時代は終わった。

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