第1話 人質の子
俺は自分より怖がっている人間を、初めて見た。
その子は織田の城へ送られてきた、人質だった。
名を、竹千代という。三河の松平の、跡取りだそうだ。父親が織田と今川の間で揺れた末に、こちらへ差し出された。要するに、駒だ。家と家のやり取りに使われる、年端もいかぬ駒。
家臣たちは、その子を見て、こう言った。
「よい人質を取りましたな。三河を御することの、よき手札になりましょう」
手札。
その言葉を、家臣たちは、さも当たり前のように口にした。よい駒が手に入った。使い勝手のよい石だ。そう言って、笑い合っている。
そう、世間にとって、この子はただの札だ。今川を牽制するために置いておく石。いざとなれば、首を刎ねて見せしめにもできる、捨てて惜しくない命。
俺は、それが、たまらなく嫌だった。命を、石のように数える。その言い方が、昔から、どうしても好きになれない。
俺は廊下の陰から、柱に半身を隠すようにして、その子を盗み見た。人がいる部屋へ、正面から入っていくのは、俺には難しい。誰かと同じ場所にいるというだけで、背中がそわそわして、逃げ道ばかり探してしまう。だから、こんなふうに、物陰から覗くのが癖になっていた。
小さな体を、いっそう小さく丸めて、部屋の隅に座っている。膝を抱え、誰とも目を合わせず、ただじっと、襖の向こうの足音に耳を澄ませている。足音が近づけば、びくりと肩を震わせる。遠ざかれば、ほんの少しだけ、息を吐く。
ああ、と俺は思った。
あの座り方を、俺は知っている。あの耳の澄まし方を、俺は知っている。
あれは、いつ殺されるか分からないと、知っている目だ。背中を、壁につけていないと落ち着かない。刃物の届く間合いに、誰も入れたくない。
俺と、同じだ。
俺だって、織田の嫡男などという、ご大層な名で呼ばれてはいる。だが中身は、あの子と何も変わらない。いつ寝首をかかれるか、いつ毒を盛られるか、いつ身内に裏切られるか――そればかりを、生まれてからずっと、怯えて生きてきた。膳が運ばれてくれば、毒を疑う。夜、廊下がきしめば、飛び起きる。誰かに背を向けるのが怖くて、壁を背にして眠る。そんな暮らしを、もう何年も続けている。
違うのは、俺には逃げる先がなく、あの子には帰る家がない。それだけだ。
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。放っておけない、と思った。
俺のように、あんなに小さいうちから、あんな目をして生きなければならないなんて。それは、あんまりだ。
気づけば俺は、足が動いていた。
人が怖いはずの俺が。間合いに入られるのが死ぬほど嫌なはずの俺が。誰かに近づくくらいなら三里でも遠回りするはずの俺が。なぜか、その子の前まで歩いていって、しゃがみ込んでいた。
竹千代がびくりと肩を震わせ、俺を見上げた。
大きく見開かれた目に、はっきりと怯えが浮かんでいた。うつけと悪名高い織田の若殿が、目の前にしゃがみ込んで、自分に何をするつもりだろう――そう思っているのが、手に取るように分かった。いたぶられるのか。それとも、いよいよ首を刎ねられるのか。この子は今、そういう覚悟の顔をしている。
分かるのだ。
だって、俺もいつも、その目で人を見ている。誰かがこちらへ近づくたびに、この人は俺を殺しに来たのではないかと、まず疑う。そういう目だ。
俺はなるべく怖がらせないように、声を低くした。低くしたつもりが、緊張で、かえって地を這うような声になった。竹千代の肩が、また跳ねた。しまった、と思いながら、俺は口を開いた。
ずっと、誰かに訊いてみたかったことだ。家臣にも、父にも、訊けなかったことだ。
「なあ」
俺は言った。
「お前も――死ぬの、怖いか?」
「自分より怖がっている人間を、初めて見た」――震える竹千代に自分を重ねる出会いに胸がじんとしたら、【にこにこ】か【いいね】を! ビビリ同盟の始まり、続きはブックマークで。




