第3話 私も、もう、限界でした
光秀は、しばらくうつむいて、肩を震わせていた。俺は、何も言わずに待った。急かしてはいけない、気がした。
この男が涙をこぼすところなど、初めて見た。いつも背筋を伸ばし、寸分の隙もなく役目をこなす、あの生真面目な光秀が。その堅い殻が、いま、静かに割れていくのが分かった。
やがて、光秀は絞り出すように口を開いた。
「……殿。お許しくださいませ。私はいま、安堵してしまいました」
「安堵?」
「はい」
光秀は、涙を拭おうともせずに続けた。
「私はずっと、怖かったのです」
「明日は、どの役目を押し付けられるか。どこでしくじって、お叱りを受けるか。寝ても覚めても、胃がきりきりと痛んで。夜中に何度も、目が覚めました」
俺は、思わず胸を押さえた。胃が痛い。夜中に目が覚める。それは、俺が四十八年、ずっと抱えてきたものと、寸分も違わなかった。
「上には織田家のご威光がのしかかり、下からは家臣どもが突き上げてくる。そのあいだに挟まれて、私はただ、すり減っていくばかりでした」
「誰にも言えませなんだ。弱音を吐けば、役立たずと思われる。だから歯を食いしばって、きちんとやり遂げるふりをして参りました」
ぽつり、ぽつりと。
この律儀な男が、初めて本音をこぼした。
ああ、と俺は思った。
こいつも、同じだったのか。
てっきり、俺だけだと思っていた。この重い看板の下で、たった一人、震えているのだと。
だが、違った。
降りたいのに降りられず、重荷に潰されそうになりながら、それでも歯を食いしばって立ち続けてきた。
光秀は、俺と、同じ顔をしていた。
魔王と、逆賊。世間はそう呼ぶ二人が、その内側では、まったく同じ、ただの疲れきった男だった。
「殿のお話を、伺って」
光秀は、ふっと笑った。
泣きながら笑う、その顔は、憑き物が落ちたように見えた。
「ああ、私だけではなかったのだ、と。あの、誰よりも強く見えたお方も。私と同じように震えておられたのだ、と」
「正直、申し上げます。私も、もう」
光秀は、まっすぐに俺を見た。
「限界でした」
「やりましょう、殿」
「光秀……」
「私が、裏切り者になります。喜んでなりましょう。それで殿が、あなたが楽になれるなら」
俺は、光秀の手を取った。
かさついた、冷たい手だった。俺のと同じ、ずっと何かに耐えてきた男の手だった。
長年、主従だった二人が。
このとき初めて、対等の共犯者として、しっかりと手を握り合った。
「すまぬ、光秀。汚れ役を、押し付ける」
「なにを。私が、望んで引き受けるのです」
光秀は、もう泣いていなかった。
その顔には、憑き物が落ちたあとの、不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。
降りたい者どうしが、ようやく出会えた夜だった。
こうして、世界一ばかげた段取りに、もうひとり、降りたい男が加わった。
「私も、もう、限界でした。やりましょう」――長年の主従が、初めて対等な者どうしとして手を取る救済にじんときたら、【泣ける】か【にこにこ】を! 続きはブックマークで。




