第1話 その日が、来る
天正十年、六月二日。
織田信長は、京の本能寺で明智光秀に討たれて死んだ。
――ということに、なっている。
後の世の書物には、そう刻まれるだろう。
第六天魔王、家臣の謀反に斃れる。炎の中で壮絶な最期を遂げた、と。
だが。
俺は、こうして、まだぴんぴんと生きている。
これから起きるのは、謀反でも悲劇でもない。何年も何年もかけて、たったひとりと複数人だけで組み上げてきた、世界一ばかげたバックレの段取りだ。
***
安土から京へ上る道中。
供の者に囲まれ、馬の背に揺られながら、俺の膝は、いつものように震えていた。四十八になっても、怖いものは怖い。物心ついた頃からずっとそうで、この体だけは、どう鍛えても飼い慣らせなかった。
これから自分の葬式を、自分で出すのだ。しかも、本物の炎の中で。
一歩間違えれば、芝居のはずの死が、そのまま本物の死になる。段取りが一つでも狂えば、俺はあの炎の中で、本当に灰になる。考えただけで、腹がしくしくと痛んだ。掌には、じっとりと汗がにじむ。喉が、からからに渇いている。
いつもの、恐怖のときの体だ。
だが、その震える膝の奥で。
ずっと燻っていた、もう一つの火が。
静かに、確かに、熱を持ち始めていた。
降りられる。
ようやく、この重すぎる看板を降ろせる。
第六天魔王。天下人。誰もが恐れ、誰もがひれ伏す、その大層な肩書きを、まるごと炎に焼き捨てて。
帰蝶と二人で、誰にも怯えなくていい、どこかへ。
背後を気にせず眠れる、暗がりに震えなくてもいい、そんなどこかへ。畑でも耕しながら、静かに生きていける。
天下なんて、初めから欲しくなかった。俺が本当に欲しかったものは、それだけだった。
そんなささやかな夢が、もう手の届くところまで来ていた。
あとは、すべての役者が揃えばいい。
帰蝶は、もう覚悟を決めている。
初夜に震えていた俺を見抜いて、以来ずっと、俺の唯一の共犯者でいてくれた人だ。この最後の大芝居も、あの人は静かに頷いてくれた。
秀吉と家康にも、それぞれ伝える手筈はある。
猿は――秀吉は、まだ何も知らせていないが、あの勘の鋭い男のことだ。事が起きれば、たちどころに何もかも察して、うまく後始末をしてくれるだろう。
家康は、ビビリ同盟の相棒だ。あいつには、いちばん無様で、いちばん大事な役を頼んである。
息子の信忠とも、近いうちに肚を割る。
だが、いちばん肝心なひとりが、まだ残っていた。
この世界一ばかげた芝居で、「裏切り者」のいちばんつらい役を演じてもらう男。後の世まで「主殺しの逆賊」と罵られる、その汚れ役を、俺は一人の男に背負わせようとしていた。
その男の顔を思い浮かべると、胸が、ちくりと痛んだ。
俺は京へ入る前に、あのすり減った男に、本当のことを打ち明けることにした。
まずは、そこから始まる。
「討たれて死んだ――ということに、なっている」。震える本音と、動き出す高揚。その掴みにゾクッときたら、【びっくり】か【いいね】を! すり減った男に打ち明ける続きを、ブックマークで見届けてください。




