第9話 降りたい者どうし
武田を滅ぼしたあと、嫡子の信忠が、安土に戻ってきた。俺は、人払いをして、天主の一室で、二人きりになった。血の繋がった息子とこうして向き合うのは、いつ以来か、思い出せないほど、久しぶりだった。
信忠は、初め、ひどく硬かった。俺の前では、いつもそうだ。こいつにとって、父である俺は、あいかわらず近寄りがたい魔王だった。家督を譲られても、武田を討つ手柄を立てても、父の本当の顔を、こいつは、何も知らない。
「信忠」
俺は、できるだけ静かに、声をかけた。
「武田攻め、ご苦労だった」
「は……いえ。父上の、ご威光のおかげに、ございます」
声が強張っている。いつもの答えだ。誰もが、こう言う。
俺は、しばらく迷ってから、思い切って訊いた。
「信忠。お前は、織田の家督を継いで、重荷に感じてはいないか」
信忠の肩が、びくり、と揺れた。
長い沈黙のあと、うつむいたまま、絞り出すように言った。
「……恐れながら」
声が震えていた。
「正直、申し上げれば。父上の跡を継ぐのが、恐ろしゅうございます」
「儂は、父上のように強くはありませぬ。あの、魔王と呼ばれる御方の跡を、とても背負いきれる気がいたしませぬ」
「天下をまとめよと言われても、儂には、荷が勝ちすぎて。夜も、眠れぬ夜がございます」
ぽつり、ぽつりと、息子は、初めて俺に弱音をこぼした。
俺は、その震える背中を見つめながら、胸がいっぱいになった。
ああ。
こいつも、そうだったのか。
俺は、自分でも驚くほど自然に、息子の肩に手を置いていた。人に触れるのが、あれほど苦手な俺が。
「……信忠」
俺は、ほんの少しだけ、生まれて初めて、息子に本当のことを漏らした。
「降りたいのは。儂も、同じだ」
信忠が、はっと顔を上げた。信じられない、という目で、俺を見た。
俺は、その驚いた顔に向かって、ほんのかすかに笑ってみせた。
「お前が嫌なら、無理に背負わなくていい。重荷など、どこかで、そっと下ろしても、いいのだ」
「父上……それは、いったい……」
「いまは、まだ言えぬ。だが、近いうちに、お前にも、儂の本当の肚を話す」
その夜、俺と息子のあいだの、長い誤解が、ほんの少しだけ溶けた気がした。
理解者は、帰蝶と秀吉と家康。そこに、息子の信忠と、すり減った明智が、加わるかもしれない。
役者は、少しずつ、揃い始めていた。
俺の、世界一ばかげた段取りは、この、安土の天主で、静かに動き始めた。
***
あとは。
あの、本能寺で。
「降りたいのは、俺も、同じだ」――半ば誤解していた親子の距離が縮まる本音にじんときたら、【にこにこ】か【泣ける】を! 「あとは、あの、本能寺で」。いよいよのクライマックスを、ブックマークで見逃さずに。




