第7話 まっさきに、帰蝶へ
天主で、あの考えに憑かれた、その夜のうちに。俺は、帰蝶の部屋の、襖を開けていた。
秀吉でもない。家康でもない。まっさきに、この人に、言いたかった。
九年前。比叡山を焼いた、あの夜。「普通の人間に、戻りたい」と、生まれて初めて声に出して打ち明けた、あの人に。
帰蝶は、俺がこんな刻限に訪ねてきても、驚かなかった。灯を細くした部屋で、脇息にもたれたまま、ただ、静かに俺を見た。
「……帰蝶」
俺の声は、震えていた。着想の高揚と、口にしてしまうことへの怖さとで。
「俺は」
言え。俺は、自分に言い聞かせた。この人になら、言える。
「俺は……死んだことに、なろうと思う」
言ってしまった。第六天魔王を、この世から消す。織田信長を、死んだことにして、ただの人間に戻る――その、途方もない企みを。
帰蝶は、しばらく、何も言わなかった。
そして。
「……ようやく、でございますね」
そう言って、ふ、と笑った。
俺は、面食らった。
「驚か、ないのか」
「驚きませぬ。ずっと、待っておりましたもの。あなたが、その答えに、たどり着かれるのを」
帰蝶は、脇息から、身を起こした。
「比叡山の夜から。あなたが『普通の人間に戻りたい』と泣かれた、あの夜から。わたくしは、ずっと考えておりました。どうすれば、この臆病で優しい人を、あの重たい看板から、降ろして差し上げられるのか、と」
俺は、言葉を失った。
俺が何年も、独りで胸の底に沈めてきた願いを。この人は、俺と同じだけ、いや、俺よりも長く、共に、抱えてくれていた。
「……ついてきて、くれるか」
我ながら、情けない声だった。だが、帰蝶は、あきれたように、けれど、優しく、目を細めた。
「今さら、何を仰います。わたくしは、初夜の晩から、あなたの共犯者でございますよ」
胸の奥が、じん、と熱くなった。
だが――。
俺が、礼を言おうと口を開きかけた、そのときだった。帰蝶の目の色が、すっと、変わった。凛とした、蝮と呼ばれた道三の、娘の目に。
「ですが、あなた」
「おひとりでは、無理でございますよ」
俺は、どきりとした。
「考えてもごらんなさいまし。あなたが消えたあと。誰が、あなたの"亡骸"を、誰にも検めさせずにおくのです。誰が、割れた織田の家を、まとめ直すのです。あなたが城を抜ける、その抜け道は。あなたの『死』が作り事だと、万にひとつも、世に悟られぬための手当ては」
指を、一本ずつ、折っていく。
「――何ひとつ、できておりませぬでしょう」
俺は、ぐうの音も出なかった。
天主の上で、あれほど鮮やかに見えた企みが。この人の前では、まだ、ただの、子どもの夢物語だった。
「……お前は」
俺は、呆然と、呟いた。
「もう、そこまで、考えていたのか」
「女子は、殿方が思うより、ずっと、しぶといのでございます」
帰蝶は、悪戯っぽく笑って、それから、まっすぐに俺を見た。
「大丈夫。ひとつずつ、数えていけば、よいのです。あなたの"死"を、信じ込ませる者。あとの世を、継ぐ者。骸を、隠してくれる者。――心当たりは、おありでしょう」
ある。俺の頭の中で、いくつかの顔が、ゆっくりと、浮かび始めていた。
「その者たちを口説くのは、あなたのお役目。段取りを抜かりなく詰めるのは、わたくしのお役目。そして」
帰蝶は、俺の、汗ばんだ手を、両手で包んだ。あの、九年前と、同じように。
「決めた夜。わたくしは、あなたの傍を、片時も離れませぬ。あなたが土壇場で怖じ気づいて、足を止めても。わたくしが、背中を、押して差し上げます。――必ず、二人で、ここを出ましょう」
――ああ。
俺の、世界一ばかげた妄想は。この夜、この人の手の中で、初めて。
"段取り"に、なった。
秀吉でも家康でもなく、まっさきにこの人に言いたかった――ずっと待っていてくれた帰蝶にじんときたら、【にこにこ】か【泣ける】を! 二人で描く続きを、ブックマークで。




