第5話 楽になんて、ならない
なぜ晴れないのか。俺には、すぐに、分かった。
また、人が死んだからだ。
武田の勝頼も、その妻も、幼い子も、最後まで付き従った家臣たちも、天目山でことごとく、命を絶ったという。俺は、その場にいなかった。刀の一本も、振っていない。それでも、俺が攻めさせたから、彼らは死んだ。
武田は、強かった。信玄は、紛れもない名将で、その兵は、誰よりも勇敢だった。ただ、時代の流れに、鉄砲という新しい戦の形に、呑まれていっただけだ。
彼らに、罪はなかった。ただ、俺の敵だった、というだけで、これほど多くの命が、ひとつ残らず消えた。
顔も知らない。声も知らない。それでも、その母が、その子が、山あいで息絶えていく姿を思うと、胸の奥がぎゅうと詰まって、息が、うまくできなくなった。
これまでも、そうだった。桶狭間の義元も、比叡山の僧たちも、金ヶ崎で背を向けた長政も。俺は、恐怖に駆られて敵を消し、正気に戻っては、その骸に手を合わせて、泣いてきた。武田は、その、いちばん最後の、いちばん大きな山だった。
俺は、金に光る天主の最上階で、ひとり、膝をつき、声を殺して泣いた。
「すまない。すまない」
会ったこともない武田の人々に向かって、何度も、何度も詫びた。畳に涙が落ちて、小さな染みを、いくつも作った。肩が震え、嗚咽が喉の奥から止めどなくあふれた。
その嗚咽が、階の下まで、かすかに漏れ聞こえたらしい。家臣たちは、また、勘違いをした。
「聞け、殿の、あのお声を。武田を滅ぼした、勝ちの雄叫びだ。あれこそ、魔王の哄笑よ」
号泣すら、勝鬨に聞こえる。俺が泣けば泣くほど、魔王が高笑いしているように聞こえるのだ。もう、何をしても、同じだった。
涙が涸れたころ、俺は、ぼんやりと、思った。
俺は、ずっと、こう思って戦ってきた。
敵がいるから、怖いのだ。だから、敵を倒せばいい。一つ、また一つと、怖いものを消していけば、いつか、何も怖くない世界が来る。そうしたら、俺は、ようやく楽になれる。そう信じて、泣きながら、震えながら、ここまで来た。
そして、いま。最後の、最強の敵・武田まで、消えた。東に、もう、俺を脅かす者は、いない。
なら、俺は、楽になれたはずだ。ずっと願っていた、あの安らぎが、ようやく手に入ったはずだ。
なのに。
怖いものを一つ消すたびに、その足もとには、いつも、新しい骸の山が積み上がった。そして、その山を越えたところには、また別の、怖いものが待っていた。今度こそ、今度こそと消し続けて、気づけば俺は、数えきれない命の上に、こうして立っている。
胸の中にあるのは、喜びでも、安らぎでもなくて、ただ、底の抜けた桶のような、深い虚しさだけだった。いくら勝っても、いくら敵を消しても、そこには、何も、溜まらない。
俺は、湖に沈んでいく夕日を見ながら、つぶやいた。
「敵を、全部倒したら。楽に、なれると、思っていた」
声が、震えた。
「なのに。ちっとも。楽になんて、ならない」
敵を、全部倒した。なのに、楽になんて、ならない。
――なら。いったい、どうすれば、俺は、楽になれるんだ。
「敵を全部倒したら楽になれると思っていた。なのに、ちっとも楽にならない」――その虚しさに静かに涙したら、どうか【泣ける】を。「なら、どうすれば」の先を、ブックマークで。




