第4話 武田が、滅んだ
天正十年の春。天主に、一つの知らせが届いた。
武田が、滅んだ、という。
甲斐の武田。戦国最強と謳われた、あの騎馬の軍団。かつて三方ヶ原で、俺の親友・家康を、地に這うほど無様に打ち破った、あの武田だ。
老いた信玄が亡くなったあとも、その家はなお強大で、俺は長いあいだ、夜ごと、あの軍団の影に怯えてきた。地鳴りのように迫る蹄の音。それを思い浮かべるだけで、指の先まで冷たくなった。
その武田の当主・勝頼が、天目山という山あいで追い詰められ、妻子や一族とともに、自ら果てた、という。あれほどの騎馬武者が、あれほど鳴り響いた武田の名が、もう、どこにも、いない。
信じられなかった。俺が枕を高くして眠れなかった、あの武田が。こんなにも、あっけなく。
知らせを持ってきたのは、甲斐へ攻め込んだ軍勢からの、早馬の使いだった。使いの者は、額に汗を光らせ、勝ち戦の興奮に声を上ずらせて、天目山での顛末を、一気にまくしたてた。その先陣には、俺の嫡子・信忠もいて、めざましい働きをした、という。
俺自身は、安土のこの天主から、一歩も動いていない。人生でいちばん怖かった敵は、俺が刀の一本も抜かぬうちに、遠くの山の中で、勝手に崩れ、勝手に消えていった。
まるで、こちらの怯えなど、はじめから何の意味もなかったかのように。
家臣たちは、沸き立った。
「やりましたぞ、殿! あの武田を、ついに滅ぼしましたぞ! これで、東に敵はなし!」
「天下統一は、もはや目前。魔王の覇業、いよいよ成りますな!」
天主の下から、地を揺らすような勝鬨がわき上がる。誰もが笑い、誰もが酒に酔い、勝ちに酔っていた。祝いの使者が列をなし、祝いの品が山と積まれ、城じゅうが、めでたい、めでたいと沸いている。
だが、俺は。
その勝鬨のただ中で、金の間にひとり、立ち尽くしていた。誰も、俺の顔色になど、気づかない。
長いあいだ、俺は、武田が怖かった。あの軍団が地平の向こうから、土煙を上げて攻めてくる夢を、いったい何度、見ただろう。飛び起きて、寝汗で夜着がぐっしょりと背に貼りついていた朝も、数えきれない。信玄が死んだと聞いた日でさえ、これは俺を油断させる罠ではないか、と、かえって夜通し眠れなかった。
それほど、俺は、武田を恐れていた。三方ヶ原で家康を打ち破ったあの戦ぶりを、伝え聞くたびに、次はこちらの番だと、腹の底が冷えた。
その、いちばん怖かった敵が、いま、この世から、消えた。
もう、あの蹄の音に怯えて夜中に目を覚ますことも、ないはずだった。俺は、ほっと胸をなでおろし、安堵の息をつく――はずだった。
なのに。
俺の心は、ちっとも、晴れなかった。それどころか、勝鬨が高く響けば響くほど、胸の底が、重く、冷たく沈んでいくのだった。
あれほど怖かった敵が消えて、なのに心はちっとも晴れない――その虚しさに胸をつかれたら、【いいね】か【泣ける】を! 晴れない理由の続きを、ブックマークで。




