第3話 誰も、ここまで来ない
天主のいちばん上に立つと、世界が、足もとにあった。
城下の屋根が小さく連なり、湖が夕日を受けて、燃えるように光る。行き交う人も馬も、米粒のようだ。天下のすべてが、ここから見えた。俺は、そのすべての、いちばん高いところに立っている。
だが。
この、いちばん高いところまで登ってくる者は、誰も、いなかった。
家臣たちは皆、階の下で平伏する。俺が衣の裾を鳴らして通れば、いっせいに頭を下げ、誰一人、顔を上げない。俺の目をまっすぐ見る者など、もう、どこにもいなかった。
言葉を交わすにも、皆、俺の顔ではなく、床の一点を見て話す。近う寄れ、と言っても、にじり寄るその膝が、小刻みに震えている。「第六天魔王」を、まともに見つめ返せる者など、この世に、いるはずもなかった。
俺は、その平伏する頭の海を見下ろしながら、いつも、同じことを思う。
こいつらは、誰一人、本当の俺を知らない。
ここに立っているのが、夜になればひとりで眠れなくて、背後に人の気配がするだけで心臓が跳ね上がって、人を斬れば子どものように泣きじゃくる、そんな、ただの臆病者だ、ということを、誰も、知らない。
かつては、まだよかった。うつけと呼ばれていた頃は、若い衆と裸で相撲を取り、汗まみれの体をぶつけ合って、そのときだけは、人の体温を、じかに感じることができた。土俵の上には、刃物もない。裏切りもない。誰かの肌に触れていられる、あれが、俺の、たった一つの人恋しさの発露だった。
だが、天下人になってからは、それも、できなくなった。
俺が欲しかったのは、こんな、平伏する頭の海じゃない。ただ、隣で、俺を怖がらずに笑ってくれる、誰かの、体温だ。
けれど、高く登れば登るほど、そのぬくもりは、遠くなっていくばかりだった。
本当の俺を知っているのは、たった、三人だけだ。
岐阜で、震える俺の手を、黙って握ってくれる帰蝶。
中国の地で、いまも俺のために、泥まみれで戦ってくれている秀吉。
三河で、並んで震えながら、「一生、ついていく」と言ってくれた家康。
その三人だけが、この、高すぎる孤独の中で、俺を、魔王ではなく、ただの人間として見てくれた。
そのとき、衣擦れの音がして、帰蝶が隣に来た。何も言わずに、俺の手を取る。冷たく汗ばんだ、俺の震えを、この世でいちばんよく知っている手だった。
「また、下を見ておいでですか」
帰蝶が、湖のほうへ目をやりながら、静かに言った。
「あなたは、ほんとうに、高いところがお好きですこと」
好きなものか、と、俺は思う。高いところは、ただ、いちばん安全なだけだ。そして、いちばん、寂しいだけだ。それを、この女だけは、言わずとも分かっている。
俺は、その手を握り返しながら、思った。
いちばん高いところは、いちばん、ひとりだった。
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