第9話 降りたい
長篠の勝ちのあと、俺は嫡子の信忠に家督を譲った。織田の家を束ねる役目を。天下の重荷を。あの、まだ若い息子の肩に。
世は、これをこう見た。
「織田は、いよいよ盤石。父は天下を睨み、子は家を継ぐ。世代をまたいで、織田の威は揺るがぬ」
立派な世代交代、というわけだ。
だが、俺の本音は、もっと情けないものだった。
降りたかった。
ただ、それだけだ。
この重すぎる天下から、少しでも肩の荷を下ろしたかった。
息子に家督を渡せば、せめて半分くらいは楽になれるのではないか。そんな、ずるい考えがあった。
もっとも――信忠は、そんな父の本音など知らない。あいつから見れば、俺はあいかわらず、近寄りがたい、魔王のような父だろう。
いつか、ちゃんと話せる日が来ればいい。お前にも、本当の俺を見せられる日が。そう思いながら、その日を俺は、ずるずると先延ばしにしていた。
天下は、楽になどならなかった。
家督を譲っても、戦は止まらない。それどころか、信じていた家臣が、また裏切った。
荒木村重が謀反を起こした。松永久秀も背いた。
次から次へと。俺が目をかけた者ほど、牙を剝いてくる。裏切られるのが、いちばん怖い俺にとって。それは心を少しずつすり減らしていく、毒のようだった。
もう、終わりにしたい。そう思う夜が、増えた。
人を疑い、人に怯え、人を斬っては号泣する。そんな日々を、いつまで続ければいいのか。
俺はただ、静かに暮らしたいだけなのに。
それでも、俺は一人ではなかった。
岐阜の城には、帰蝶がいた。俺のすべてを知っていて、なお隣にいてくれる人が。
三河には、家康がいた。「一生、ついていく」と言ってくれた、怖がりどうしの親友が。
そして、遠く中国の地では、猿――いまは羽柴秀吉と名を改めた、あの男が、俺のために戦ってくれていた。
たった、三人。
けれど、その三人だけは、俺を魔王とも天才とも思わない。ただの臆病な俺を、知っていてくれる。
その三人のぬくもりに支えられて、俺の心の底で、あの願いが静かに育っていた。第九の夜、初めて声に出した願いだ。
普通の人間に、戻りたい。
誰にも怯えなくていい場所で、帰蝶とただ、静かに暮らしたい。
俺はもう、降りたかった。この重すぎる天下から。
だが、どうやって降りればいいのか。それがまるで分からなかった。天下人が天下を捨てる方法など、この世のどこにも書いていない。
――その答えを、俺が見つけることになる場所が、いま、近江の湖のほとりにそびえ立とうとしていた。
あの、安土の天主だ。
「もう、降りたかった。この、重すぎる、天下から」――摩耗の果ての切実さにじんときたら、【いいね】か【泣ける】を! 願いを形にする安土の天主へ。見逃さないようブックマークを。




