第7話 出して、下がれ
夜が明けた。
腹の痛みは、まだ引かない。夜通しろくに眠れず、まぶたが重い。
長篠の野に、武田の騎馬がずらりと並んだ。朝もやの向こうに、色とりどりの旗指物が揺れている。あの、名高い赤備えも見える。
地の底から湧くような鬨の声。馬のいななき。あれが一斉に駆けてきたら。俺はもう、それを想像しただけで、冷や汗が止まらなかった。南蛮胴の下が、じっとりと湿っていくのが分かった。
馬防柵の内側で。
俺は鉄砲隊を、いくつかの組に分けて並べた。
そして昨夜、厠の行列から思いついた、あの形を伝えた。
「一の組、撃ったら下がれ。二の組、入れ。撃ったら下がれ。三の組、入れ」
声が震えていた。
家臣は俺のその震えを、武者震いと思ったらしい。
違う。ただの、武田の騎馬が怖いだけの震えだ。
やがて、地面が鳴りだした。
武田の騎馬が駆けてきた。土煙を巻き上げ、こちらへまっすぐ。あの、俺がいちばん恐れた光景だ。
俺は半泣きで叫んだ。
「撃て――ッ!」
轟音。白い煙が視界を覆う。硝煙のにおいが鼻を突く。
煙が薄れて、俺は見てしまった。
先頭の馬が、前脚を折って崩れていた。俺のひと言で放たれた鉛の弾が、あの大きな生き物を、ぐしゃりと地に沈めていた。馬に、罪などない。ただ、乗り手を背に、走ってきただけだ。それが、物のように、あっけなく転がっている。
俺は、虫一匹踏むのもためらう男だ。
その俺が、いま、ひと声で。
喉の奥が、せり上がった。手が、動かなくなった。
次の号令が、出せない。
(もう、来るな。頼むから、来ないでくれ。もう、殺したくない)
心の中で、そればかりを繰り返していた。ここで武田が退いてくれたら。そうすれば、もう撃たずにすむ。俺はただ、それを願った。
だが。
武田は、ひるまなかった。
倒れた仲間の屍を越えて、後続がまっすぐに突っ込んでくる。あの信玄が鍛え上げた、誇り高き兵たちだ。逃げも隠れもせず、一歩も緩めず、こちらへ――俺のほうへ、迫ってくる。
近い。
さっきより、ずっと近い。
その距離に、俺の願いは、恐怖にのみ込まれた。
来る。柵を越えて、こっちへなだれ込んでくる。殺される。俺が、殺される。
「――撃て! 撃てぇッ!」
気づけば、俺はまた叫んでいた。殺したくないからではない。ただ、怖かったからだ。近づかれるのが、怖くて、怖くてたまらなかったからだ。
轟音。
今度は、間近だった。俺が手を止めていた、あのわずかな間に、武田の騎馬は柵のすぐ手前まで、深々と入り込んでいた。逃げ場のない距離で、先頭の一団が、まとめて薙ぎ倒される。
「下がれ! 次、入れ! 撃て!」
また、轟音。
「下がれ! 入れ! 撃て!」
撃っては下がり、入れ替わって、また撃つ。撃った者が後ろへ抜け、次の者が前へ詰める。途切れることなく、鉛の弾が飛び続ける。
ちょうど、あの厠の行列のように。一人出ては下がり、次が入る。あの、間の抜けた光景そのままに。
引きつけられるだけ引きつけられた最強の騎馬軍団が、いちばん近い、いちばん逃げられない場所で、雨のような弾を浴びていく。馬が倒れ、武者が投げ出される。それでもなお、後続が屍を越えて突っ込んでくる。逃げも隠れもせず、まっすぐに死地へ突き入ってくる。戦国にその名を轟かせた甲斐の軍団が、時代の変わり目に呑まれていく。
それは、見ていてつらい光景だった。
俺は武田を憎んでなど、いない。むしろ、あの強さに憧れさえした。ただ、怖かっただけだ。だから、せめて近づかれる前に止めたかっただけだ。あんなに強い者たちが、こんなに脆く倒れていく。それも、俺の手が止まったせいで、いちばんむごい間合いで。勝ちの手応えよりも、ただ胸が塞ぐようだった。
「……ごめん。ごめんな」
弾込めの音にまぎれて、俺は小さく漏らしていた。だれにも、聞こえないように。
やがて、武田の軍が退いていった。土煙が薄れ、野に静けさが戻ってくる。硝煙のにおいだけが、いつまでも鼻の奥に残った。
戦は、俺と家康の勝ちだった。陣のあちこちで、家臣が勝ち鬨をあげている。
その家臣の一人が、上気した顔で、俺の前に膝をついた。
「殿……! お見事にございました。初手の一斉射のあと、あえてぴたりと弾を止められた。敵を柵際まで深く引き込み、逃げ場を失うぎりぎりまで引きつけてから、一気に討ち取る――我らには、とても読めぬ間合いにございます。おそれいりましてございました」
引きつけた。わざと。
違う。あれは、ただ手が止まっただけだ。人も、馬も、かわいそうで。殺すのが、怖くて。それだけだ。
「……違う」
俺は、かすれた声で言った。
「儂は、ただ……」
そこから先が、続かなかった。怖くて動けなかっただけだ、とは、言えなかった。
家臣は、その沈黙を、深謀を語らぬ主の奥ゆかしさと受け取ったらしい。いっそう深く、頭を垂れた。
「さすがは、第六天魔王。……底が、知れませぬ」
違う。底なんて、とっくに割れている。ただの、臆病者だ。
俺は柵にもたれて、へなへなと座り込んだ。足に、まるで力が入らない。膝が、まだ細かく震えていた。
勝った、という喜びは、なかった。ただ、終わった、という安堵だけがあった。これでもう、あの騎馬がこちらへ来ることはない。それだけで、涙が出そうだった。
俺は勝った。
腹の痛みから思いついた、戦い方で。
正直に言えば。
きのうの夜、あの厠の行列で感じた腹の痛みのほうが、きょう、目の前になだれ込んできた武田の騎馬よりも、よほど怖かった。
「武田の騎馬より、昨夜の腹の痛みのほうが、よほど怖かった」――半泣きの指揮で最強騎馬を圧倒する落差に笑ったら、【笑える】か【びっくり】を! 続きはブックマークで。




