第6話 腹が、痛い
二年が過ぎた。
天正三年。場所は三河の長篠。俺と家康の連合軍の前に、武田の騎馬軍団が現れた。
信玄は、すでに世を去っていた。だが、その軍は息子の勝頼に受け継がれ、相変わらず恐ろしく強い。
地響きを立てて駆けてくる、武田の騎馬。
それを遠くから眺めただけで。
俺はもう、膝が笑った。
正直に言おう。
俺は、あの騎馬の突撃が怖い。
大地が揺れる。馬蹄の音が腹の底に響く。土煙が壁のように立ち上がって、その向こうから、槍の穂先がきらきらと迫ってくる。馬上から槍を構えて駆けてくる武者。あれに間近でぶつかられたら、ひとたまりもない。踏みつぶされて、串刺しにされる。想像しただけで、口の中がからからに乾いた。
だから、俺は決めていた。
「絶対に近づけない。ぜんぶ遠くから、鉄砲で撃つ」
幸い、鉄砲は――いや、家康にずいぶん贈ってしまったが、それでも、まだ唸るほどある。
馬が柵に阻まれて止まったところを、遠くから撃ち倒す。それが、俺の立てた策だった。
ところが。
合戦を明日に控えた、その夜。
俺の腹が、痛み始めた。
きゅう、と差し込むような痛みが、腹の奥から這い上がってくる。冷や汗が、じわりと背に浮いた。緊張すると、俺はすぐ腹を下す。子供の頃から、ずっとそうだ。怖いことが近づくと、頭より先に、腹が音を上げる。
明日は、あの武田の騎馬と戦うのだ。
腹が痛くならないほうが、おかしい。
俺は暗い陣の中を、腹を押さえて厠へと急いだ。冬の夜気が、汗ばんだ首すじを刺した。
すると、そこには長い行列ができていた。俺と同じように、明日の戦におびえて腹を下した足軽たちが、ずらりと並んでいたのだ。誰もが青い顔で、黙って自分の順番を待っている。
なんだ、と俺は少しだけ、ほっとした。怖いのは、俺だけではない。
俺は列の最後尾についた。魔王も、へったくれもない。腹が痛いのに、身分は関係ない。前に並んだ足軽が、俺だと気づいてぎょっと飛びのこうとしたので、そのままでいい、と手で制した。
並びながら、ぼんやりとその列を眺めていた。一人が用を済ませて出てくると、次の者がすっと入れ替わりに入る。その者が出てくれば、また次が入る。絶え間なく、途切れることなく――一人出ては下がり、次が入り。
それをぼうっと見ているうちに、俺の頭の中で、不意に何かがつながった。
弾を撃ったら、撃った者は後ろへ下がる。すると、次の者が入れ替わりに前へ出て、撃つ。その者が下がれば、また次が入る。
そうすれば――鉄砲は絶え間なく、撃ち続けられるのではないか。
弾を込め直す、あのもどかしい間が消える。途切れることなく、撃ち続けられる。
ちょうど、この厠の行列のように。
俺は、自分の腹の痛みから、ひとつの戦の形を思いついてしまった。厠の行列を眺めて、戦の策を練る大将など、古今、俺くらいのものだろう。
だが、この厠での思いつきが――のちに武田を滅ぼす戦法になろうとは、このときの俺は知らない。
自分の腹の痛みと厠の行列から、ひとつの戦の形を思いついてしまう――そのおかしみに噴き出したら、【笑える】を! 「これが――」の続きを、ブックマークで見届けてください。




