第5話 そこからが本番だ
「違う」
俺は、もう一度言った。
「それは、誇れない姿なんかじゃない」
家康が、けげんそうに顔を上げた。
俺はその絵を指さした。眉間にしわを寄せて、いまにも泣きそうな家康の顔を。
「それは、生き延びた男の顔だ」
「覚えているか」
俺はその場に腰を下ろした。家康のすぐ隣に。冷えた床から、ひやりと寒さが伝わってきた。
「人質の頃のことだ。お前と俺と、二人で夜な夜な震えていた。いつ殺されるか分からなくて、布団の中で歯を鳴らしていた」
家康の目が、わずかに揺れた。
「あのとき、俺はお前に訊いた。『お前も、死ぬの怖いか』と」
「……ああ。覚えている」
家康の声が、少しだけ子供のそれに戻った。
「お前は泣きそうな顔で頷いた。それから二人で誓ったろう。『筋肉は、裏切らない』と。怖いから、せめて強くなろう、と」
「あれから俺たちは、狂ったように体を鍛えた。腹が減れば芋をかじってでも、鍛えるのをやめなかった。強くなれば、怖くなくなると信じて」
「いいか、家康」
俺はあいつの肩に手を置いた。人に触れるのが、あれほど苦手な俺が。こいつの肩にだけは、自然と手が伸びる。
「臆病者で、いい」
ゆっくりと言った。一語ずつ、あいつの胸に置くように。
「みっともなくて、いい。震えて、逃げて、馬の上で泣いたっていいんだ。だってな。逃げてでも、生き延びさえすれば。そこからが――本番だ」
家康の目から、ぽろりと涙がこぼれた。膝の上に、ぽつり、と落ちた。
「無様に生き残った者だけが、次の戦に立てる。死んでしまえば、それで終わりだ。何も残せない。悔やむこともできない。逃げて生き延びたお前は、ちゃんと正しいんだ」
「その絵は、お前が兵に詫びる顔だ。次はもう死なせない、と誓う顔だ。そんな顔を描かせる主が、どこにいる。俺はそんなお前を、無様だなんて、これっぽっちも思わん」
俺はそう言って笑った。
「その絵はな、無様の絵じゃない。『生きて帰ってきたぞ』という、勝ちの絵だ。臆病な自分を誇っていい」
それから俺は、手を打って家臣を呼んだ。
蔵から運ばせたのは――俺の宝物だ。
ありったけの鉄砲だった。何百という種子島が、家康の前に積み上げられていく。黒々とした筒が、次から次へと運び込まれる。命より大事に買い集めた、俺の保身のコレクション。眺めているだけで息が楽になる、あの、俺の心の支えだ。
「持っていけ。全部、お前にやる」
家康が、目を丸くした。それはそうだろう。俺がこの筒を、どれほど後生大事にしていたか、こいつは知っている。
「織田殿、これは、織田殿の……」
「いいんだ。お前がこれで、遠くから敵を撃てるなら。もう二度と、あんな近くで、馬の上で震えなくて済むなら。安いものだ」
俺にとって鉄砲は、命の次に大事な宝だった。その宝を、惜しいとは思わなかった。
こいつが生き延びてくれるなら。それでいい。
家康は、しばらく言葉をなくしていた。
それから、深く、深く頭を下げた。
「織田殿」
声が、震えていた。
「俺は――あなたに、一生ついていく」
そのとき、俺はまだ知らなかった。
その言葉が、のちにどれほど俺を救うことになるか。
「生きてさえいれば、そこからが本番だ」――宝物の鉄砲を惜しみなく親友に贈る友情に胸が熱くなったら、【にこにこ】か【泣ける】を! 「一生ついていく」の重みを、ブックマークで。




