第4話 しかみ像
馬を飛ばして、俺は三河へ向かった。
道々、武田の残兵が出るかもしれぬと、生きた心地がしなかった。物陰という物陰が、みな怖かった。それでも、手綱を緩めなかった。あいつのもとへ行かねば、という思いだけが、俺の背を押していた。
家康は、城の奥まった部屋にいた。
人払いをして、ただ一人。
火桶の炭も、もう白く灰をかぶって、部屋は冷えきっていた。あいつはそれにも気づかぬ様子で、じっとうずくまっていた。
俺が入ると、あいつはゆっくりと顔を上げた。げっそりと頬がこけて、目の下に濃い隈をこしらえて。およそ三河の主とは思えぬ、しょぼくれた顔だった。負け戦から何日も、まともに眠っていないのが、一目で分かった。
家康の前には、一枚の絵が置かれていた。絵師に描かせたのだという。それは家康自身の肖像だった。
ただし――凜々しい武将の姿では、ない。
頬杖をついて、眉間にしわを寄せ、いまにも泣き出しそうな、苦り切った顔。膝の上で片手を握りしめた、打ちひしがれた姿。戦に敗れ、命からがら逃げ帰った、あの日そのままの顔。武将が人に見せてよい姿では、とてもない。誰もが隠したがる、生涯でいちばん無様な自分の姿を。
あいつは、あえて絵師に描かせたのだった。
「織田殿……いや」
家康は力なく笑った。それから、人質の頃のように声をひそめた。二人だけのときの、素の声だ。
「来て、くれたのか」
「当たり前だ」
俺も肩の力を抜いた。家中の前で被っている魔王の面を、こいつの前では外せる。ずっしりと重い面だ。外すと、素の、ただ怖がりの男に戻れる。この世で、それができる相手は数えるほどしかいない。
「お前が震えていると聞いた。放っておけるわけが、ないだろう」
家康は絵を見つめた。目が赤い。
「これを一生、手元に置いておくつもりだ」と、言った。
「二度と、こんな無様を繰り返さぬための戒めにする。負けたときのこの顔を、忘れぬように」
「……」
「笑ってくれ。天下にその名を轟かせる織田殿の盟友が、殺されるのが怖くて、一目散に逃げてきた。今も、また討たれるのではないかと、夜も眠れず、震えているのだ」
家康の声が、途中で掠れた。
「兵を、たくさん死なせた。武田の大軍が、素知らぬ顔で、城のすぐ脇を通り過ぎていく。あれを黙って見過ごせば、いつか必ず寝首を掻かれる――そう思うと、怖くて、怖くてたまらなかった。城を出るなと止められたのに、いても立ってもいられず、飛び出した。そのせいで、俺の代わりに、討たれた者もいる。それなのに、当の俺は――馬の上で、みっともなく震えて、逃げ帰ってきた」
「あのときの恐ろしさを、生涯忘れぬように、描かせた」と、家康は言った。
「これが、俺の本当の姿だ。震えて逃げるしか能のない、臆病者よ。誇れるものなど、何ひとつない」
言い終えて、あいつは深くうなだれた。膝の上で握りしめた手が、細かく震えている。
俺には、その震えの意味が、痛いほど分かった。負けたことが恥ずかしいのではない。ひとつは、いつまた殺されるかもしれぬという、底なしの恐怖。そしてもうひとつは、自分の代わりに部下を死なせてしまったという、罪悪感だ。人を死なせておいて、自分だけがのうのうと息をしている。そのことに、耐えられずにいる。俺だって、いつも同じだ。戦のあと、生き残った自分を、幾度呪ったか知れない。
だから、俺は言わねばならなかった。こいつだけには、その震えを、肯定してやらねばならなかった。
俺は、首を横に振った。
「無様な、絵だ」と笑う家康に、首を横に振る信長――ビビリ同盟の再会にじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 二人だけの魂の対話の続きを、ブックマークで見届けてください。




