第3話 三河の友が、負けた
その知らせは、冬のある日に届いた。
三河の家康が、武田信玄に、三方ヶ原で大敗した、と。
俺は、手にしていた湯飲みを取り落とすところだった。中の湯が跳ねて、指を濡らした。熱いのか冷たいのかも、分からなかった。
武田信玄。
甲斐の虎。戦国にその人ありと、知らぬ者のない名将だ。率いる軍は恐ろしく強い。馬も兵も、まるで研ぎ澄まされた一振りの刀のようだ。正直に言えば、俺は信玄が怖くて、怖くてたまらなかった。名を聞くだけで、胃の腑がきゅっと縮む。
あの人が本気で、こちらへ向いてきたら。
俺の鉄砲が何挺あっても、足りるかどうか分からない。千挺の筒を並べても、あの虎の前では、子供の玩具のように思えた。
その虎が、いよいよ西へ、京を目指して兵を動かしたと聞いたとき、俺は正直、逃げ出したくなった。あの人の進む先には、俺がいる。だが、その手前には、三河の家康がいた。
その信玄に、家康が挑んで敗れた。
聞けば、それはそれは無様な負けだったという。城に籠もってやり過ごせばよかったものを、若い家康は血気に逸って、野でぶつかってしまった。そして武田の軍に揉みつぶされ、命からがら城へ逃げ帰った。
供の者も、次々に討たれたという。あいつの身代わりになって、討たれた者もいたと。馬の上で震えていたとも聞いた。手綱を握る手が白くなるほど強張っていた、と。
それを聞いて、家臣たちは口々に言った。
「徳川どのも、まだお若い。武田を相手に、無謀が過ぎましたな」
「あの惨めな敗けようは、しばらく語り草になりましょう」
誰かが、くすりと笑った気配がした。
語り草。
その言葉を聞いた途端。
俺の胸が、ぎゅっと痛んだ。
笑えるか。
俺には笑えない。
だって、俺には分かるのだ。いま、あいつがどんな顔をしているか。馬の上で、どれほど震えていたか。逃げる背中に、どれほどの恐怖が貼りついていたか。手に取るように分かる。
なぜなら、俺と家康は。
この世でいちばん、よく似た臆病者どうしだからだ。人質だったあの頃、二人で布団にくるまって、暗闇に怯えて夜を明かした仲だ。あいつがどれほど怖がりで、どれほど泣き虫か、俺は誰よりも知っている。
その男が、あの武田を相手に、命からがら逃げてきた。いま、あいつの心は、ずたずただろう。逃げた恥ずかしさより、また殺されるのではないかという恐怖で、押しつぶされそうになっているに違いない。
俺は、すぐに馬を用意させた。
家臣は止めた。武田がまだ近くにいる。危のうございます、殿みずから赴くなど、と。
だが、俺は聞かなかった。
あいつが、一人で震えている。それだけで俺は、いても立ってもいられなかった。武田が怖いのは、いつもどおり怖い。だが、それより、あいつを一人にしておくことのほうが、耐えられなかった。
俺は、すぐにあいつのもとへ向かった。
あの、人質の竹千代のもとへ。
「あいつが心配だ、無事か」――同じ怖がりだからこそ手に取るように分かる。友を案じる心にじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 竹千代のもとへ。続きはブックマークで。




