第7話 普通の人間に
その夜のことを、俺は、生涯、忘れない。
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岐阜の城に戻っても。俺は、まだ、震えが止まらなかった。灰のにおいが、髪にも肌にもこびりついて、離れない気がした。目を閉じれば、あの静まり返った焼け野原が、瞼の裏に浮かぶ。飯も、喉を通らなかった。誰とも、口を利きたくなかった。
夜が、更けて。部屋に、帰蝶が来た。そっと、襖を開けて。俺が、暗がりのなかで膝を抱えて座っているのを見ても。帰蝶は、何も言わなかった。驚きも、しなかった。
仏の山を焼いた魔王が、部屋の隅で、子どものように丸くなっているのを見ても。ただ、静かに近づいて。俺の隣に来て、座った。灯りも、点けずに。闇のなかで、ただ、そこにいてくれた。
それで――俺のなかの、何かが切れた。ずっと、ずっと、堪えていた、何かが。俺は、帰蝶の前で、子どものように泣き出した。
「……帰蝶」
声が震えて、言葉にならない。それでも、俺は、初めて、すべてを吐き出した。ずっと、誰にも言えなかった、本当のことを。
「俺は……みんなを、怖がらせたくなんて、ないのだ」
「ただ、穏便に暮らしたいだけだ。誰も、傷つけたくない」
「なのに……やばくなると、体が勝手に動いて」
「勝手に、人を……殺してしまう」
「気づいたら、いつも、誰かが死んでいる。俺の、手で」
しゃくり上げながら、俺は、続けた。
「もう……限界だ」
「もう、いやだ。怖いのも、殺すのも、恐れられるのも、ぜんぶ、いやだ」
そして、俺は、初めて、それを声に出した。ずっと、心の底に沈めていた、たった一つの願いを。
「俺は……ただの、普通の、人間に」
「戻りたい」
言った、瞬間。胸のいちばん奥が、ぐしゃりと崩れて。俺は、また、泣いた。
普通の人間。誰にも怯えず、誰も殺さず、誰にも恐れられず。ただ、静かに生きる。そんな当たり前のことが、俺には、どうしても手に届かなかった。
言い終えて。俺は、自分の両手を見た。火を放った、この手を。たくさんの命を奪った、この手を。震えて、止まらない、この手を。
「……こんな手では、もう、帰蝶の手も握れぬ」
そう、呟いた。
帰蝶は。何も、言わなかった。慰めも、励ましも、口にしなかった。ただ――俺の手を、握った。冷たく、こわばった、俺の手を。両手で、包むように握って。ずっと、離さずにいてくれた。
帰蝶だけが、知っていた。俺の涙が、勝鬨ではないことを。俺が、魔王などではなく、ただ、怯えて泣いている、一人の男だということを。
帰蝶は、何も言わずに。ただ、俺の手を握っていてくれた。
――その温もりだけが、その夜、俺を、人間でいさせてくれた。
「儂は、ただの、普通の人間に、戻りたい」――手を握っていてくれる温もりだけが人間でいさせてくれる夜に、涙がにじんだら、どうか【泣ける】を。この願いの行方を、ブックマークで。




