第8話 魔王の業
比叡山を焼いたことで。俺の名は、決定的なものになった。
「第六天魔王、織田信長」。
仏の山すら、焼き払う。神も、仏も、恐れぬ。誰も、逆らえぬ。誰も、近づけぬ。そういう男として、俺の名は、天下に轟いた。
大名たちは、俺の名を聞くだけで、震え上がった。
「叡山を焼いた、あの男だけは、敵に回すな」
そう囁き合った。俺と戦う前から、降る者すら出てきた。世間が、勝手に俺を恐れて、勝手に道を空けてくれる。おかげで、俺の地位は、いよいよ揺るぎないものになっていった。
皮肉な、ものだ。俺は、何も望んでいない。天下なんて、要らない。恐れられたくなんて、ない。俺が欲しかったのは、ただ、安心して眠れる夜だけだ。誰にも命を狙われず。誰のことも傷つけずに。帰蝶と二人、静かに過ごせる、夜だけだ。
それだけなのに。手に入るのは、いつも、その正反対のものばかりだった。
ただ、穏便に生きたいだけなのに。人を殺すたび、号泣するたび、世間は俺を、いっそう恐れ。恐れれば恐れるほど、俺は、高みへ押し上げられていく。
降りたいのに。誰も、降ろしてくれない。
だが――いま、思えば。このとき、世が俺を、これほどまでに恐れてくれたことが。ずっと、後になって。俺を救うことになる。
誰も近づけぬ、魔王。誰も、その正体を知らない、化け物。そういう存在になってしまったからこそ。俺は、いつか、ふっと消えても。誰にも追われずに、済むのだ。
だが、それを俺が知るのは。まだ、ずっと、先のことだ。
このときの俺は、ただ、潰されそうだった。魔王という、巨大な看板の重みに。毎晩、悪夢を見た。灰色の焼け野原と、静まり返った山の夢を。そのたびに、俺は、帰蝶の手を求めた。
そして、心のいちばん底で。あの夜、初めて声に出した、たった一つの願いが。静かに、静かに、育ち始めていた。
普通の人間に、戻りたい。誰も怯えなくていい、場所で。帰蝶と、ただ、静かに暮らしたい。
それは、まだ、願いにすぎなかった。形にもなっていない、遠い夢だった。
だが――この夜の慟哭こそが。のちに、俺が、世界でいちばん壮大な、ある計画を思いつく。その、いちばん最初の種だったのだ。
誰も近づけぬ、第六天魔王。その名は、いつか、俺がすべてを捨てて消えるための、いちばんの隠れ蓑になる。
だが、それを俺が知るのは。まだ、ずっと、先のことだ。
伝説の重さに潰されそうな中、「普通に戻りたい」願いだけが静かに育ち始める――その芽にじんときたら、【泣ける】か【いいね】を! 願いの続きを、ブックマークで見守ってください。




