第7話 姉川
その日は、来てしまった。態勢を立て直し、俺は、浅井・朝倉と決戦に臨んだ。
姉川。その川を挟んで。俺は、長政の軍と向き合った。
向こうの陣に、見覚えのある旗が翻っている。長政の、旗だ。それを見ただけで、胸が裂けそうになった。
戦いたく、なかった。長政と殺し合いたく、なんてなかった。
あんなに信じた男と。ついこの間まで、義兄上、義兄上と慕ってくれた妹の夫と。なぜ、川を挟んで刃を向け合っているのだ。
帰りたい。こんな川、見たくない。長政の旗なんて、見たくない。
だが――敵は、容赦なくこちらへ押し寄せてくる。逃げ場は、なかった。
味方の陣が、押される。喊声が近づく。馬蹄が地を揺らす。刃が、すぐそこまで迫ってくる。
俺の心臓が、暴れ出した。息が、できない。冷や汗が、噴き出す。視界が、白くにじむ。
死ぬ。殺される。逃げ場が、ない。恐怖が、俺の耐えられる限界を超えた。
その、瞬間。ぷつり、と。頭の中で、何かが切れた。
そこから先のことは。よく、覚えていない。
ただ、何かを叫びながら。俺の体は、勝手に動いていた。鍛え抜いたこの体が、俺の制御を離れて。迫る刃を薙ぎ払い。押し寄せる兵をなぎ倒し。ただ、目の前の脅威を消すためだけに暴れていた。
味方が、それを見て勢いづく。戦況は傾き――やがて、浅井・朝倉の軍は、崩れていった。
気がつくと。辺りは、静まり返っていた。俺の足元には、おびただしい屍が転がっていた。
俺は、またやってしまったのだ。
冷や汗と返り血で、全身が濡れていた。手が、震えていた。膝から、崩れ落ちて。俺は、屍の山の前で泣いた。
「……すまぬ。殺す、つもりは、なかった。誰も、殺したく、なかった……」
そして、向こうの陣へ退いていく長政の旗を見ながら。声を、絞り出した。
「長政……なぜ、だ。なぜ、こんなことになった」
すぐ、傍らで。並んで戦っていた、一人の男がいた。家康だ。あの人質の竹千代が。今や、三河の主となって、俺の味方として、この姉川に駆けつけてくれていた。
家康は、泣いている俺を、じっと見ていた。何も、言わなかった。ただ、その目は、笑っても怯えてもいなかった。
こいつは、たぶん気づいている。俺の、この涙が、勝鬨ではないことに。怖くて震える者どうし、だからこそ分かるのだ。それが、俺には、ほんの少しだけ救いだった。
だが。家中は、そうは見なかった。
「殿は、義弟の裏切りに激怒なされた」
「だからこそ、あれほど容赦なく浅井・朝倉を薙ぎ倒された。裏切り者を、決して許さぬ」
「なんと恐ろしきお方か。情け無用の、まことの魔王よ」
裏切り者を許さぬ、非情の魔王。それが、世の見る俺の姿になった。
違う。俺は、長政を許せないどころか。いまでも、あいつを信じたくてたまらない。なぜ裏切ったのか、訊きたくてたまらない。
***
俺は、勝った。信じた義弟を討つ、その第一歩を。踏み出して、しまった。
いつか、俺は、長政自身をこの手にかけねばならぬのだろう。その予感に、俺は震えた。屍の前で、また泣いた。
長政。すまぬ。なぜ、こんなことに。
――誰も、俺の涙の意味を知らない。世は、俺を、裏切り者を許さぬ非情の魔王と呼んだ。
そして俺は、間もなく。もっと取り返しのつかない業を。その身に、背負うことになるのだ。
信じた義弟を討つ第一歩――誰も涙の意味を知らぬまま非情の魔王と呼ばれる哀しさに、じんときたら【泣ける】を。もっと取り返しのつかない業が待つ次章を、ブックマークで見届けてください。




