第6話 神算鬼謀
藤吉郎は、生きて帰ってきた。死地で見事に追っ手を抑え、本隊を逃がし切って。ぼろぼろになりながら、それでも、にっと笑って戻ってきた。
俺は、その顔を見た瞬間、もう少しでまた泣くところだった。危ういところで、こらえた。魔王が、家臣の生還ごときで泣くわけにはいかぬ、らしいのだ。
俺も、京へ逃げ帰った。なりふりかまわず。脱兎のごとく。情けなく。
それでいいと、思っていた。
生きて帰れた。それ以上の、何が要る。
ところが。世間の見方は。俺の思いとは、まるで違っていた。
「聞いたか。上総介殿の退き口を」
「前後を挟まれた、あの絶体絶命から。損害を最小に抑えて、鮮やかに兵を退かれたという」
「挟撃を一瞬で見抜き、即座に退却をお決めになった。あの、判断の速さよ」
「攻めるはたやすく、退くは難し。見事に退いてこそ、真の名将。上総介殿の冷静沈着、底が知れぬ」
神算鬼謀。
電撃の、撤退。
名将の、証。
俺の、なりふりかまわぬ逃走は。いつのまにか、そんな立派な名で呼ばれていた。
違う。何度でも、言う。俺は、ただ怖くて逃げただけだ。
挟撃を見抜いたのではない。挟まれて、頭が真っ白になって、ただ逃げ出したのだ。
判断が速かったのではない。考える前に、足が勝手に動いただけだ。
そこに、神算も鬼謀もない。
あったのは。
ただの、どうしようもない恐怖だけだ。
「殿の、あの退き際の見事さ……」
家臣が、うっとりと語るのを聞きながら。俺は、頭を抱えたくなった。
逃げ足が速かっただけで。なぜ、こう名将にされてしまうのか。
俺が、震えながら後ろを振り返って逃げていたことを。
藤吉郎を死地に残して、泣いていたことを。
誰も、知らない。
知らないまま、俺の臆病は、また一つ、輝かしい伝説に化けていった。
***
京の、宿所で。帰蝶だけは。俺を、こう迎えた。
「よう、逃げ帰られましたな」
「……ああ」
「上等にございます。生きて帰られた。それに勝る手柄は、ありませぬ」
俺は、その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。
逃げ帰ったことを。
「逃げ帰った」と、まっすぐ言ってくれる人が。
俺には、一人だけ、いた。
***
俺は、ただ逃げた。情けなく、なりふりかまわず逃げた。
なのに、世間は、それを「名将の証」だと言う。どこまで間違えれば、気が済むのだ。
――だが。
間違えてくれていたほうが。
まだ、よかったのかもしれぬ。
本当の地獄は。
この後に、待っていた。
俺は、間もなく。
裏切った、その長政自身と。
刃を交えることに、なるのだから。
ただ怖くて逃げただけが「名将の証」に――「どこまで間違えれば気が済むのだ」の落差に噴き出したら、【笑える】か【びっくり】を! 本当の地獄はこの後。ブックマークで見逃さずに。




