第5話 殿
総大将が、逃げる。ということは。その、いちばん後ろで。追ってくる敵を一身に引き受けて、踏みとどまる者が要る。
殿。
最後尾を支える役。逃げる本隊のために、自分は死地に残る。誰もが嫌がる、捨て石同然の役目だ。
陣を退くとき。誰が、殿を務めるか。その場が、しん、と静まり返った。
無理もない。それは、ほとんど死ねと言うに等しい。俺は、言い出せなかった。誰かに死ね、とは。とても言えなかった。
そのとき。一人の小柄な男が、ずいと進み出て、にっと笑った。
「この、藤吉郎めにお任せを」
木下藤吉郎。俺の周りを、いつもちょこまかと動き回る、あの猿だ。
「殿をお逃がしいたします。この藤吉郎が、しっかりとここで追っ手を抑えまする。殿は、どうかご無事で、京まで」
俺は、息を呑んだ。こいつは。俺を逃がすために。自分が、いちばん死に近い場所に残ろうとしている。
「……やめ」
やめろ、と言いかけて。俺は、言葉を呑み込んだ。言えば、どうなる。
「殿軍は要らぬ」と言えば、軍全体が総崩れになる。追っ手は雪崩れ込み、逃げる兵も本隊も、根こそぎ討たれる。殿がいるからこそ、皆が逃げられるのだ。
それが、分かるからこそ。俺は、藤吉郎に「死んでくれ」とも「死ぬな」とも言えなかった。ただ。頷くしか、なかった。
「……頼む」
それだけを絞り出すのが、精一杯だった。藤吉郎は、その一言で十分だ、という顔をした。
「お任せを。殿の薬湯も、まだ煎じ終えておりませぬ。こんなところで、死んでなどおられませぬわ」
冗談めかして、そう言って笑った。俺の胃が痛みやすいことまで、こいつは覚えている。死地に残ろうという、そのときに。まだ、俺の腹の心配をしている。
***
後で聞けば、家中は、こう噂したらしい。
「木下とやら、進んで殿軍を買って出たそうな。あの死地を自ら望むとは、たいした剛の者よ」
「いや。あれは、殿のご采配であろう。あの新参の小男を、捨て石にお使いになった。魔王どのは、人の使い方が、まことに容赦ない」
剛の者。捨て石。どちらも、違う。あれは、藤吉郎が自分から、俺を逃がすために残ったのだ。俺が、命じたのではない。俺は、ただ止められなかっただけだ。
***
馬を進めながら。俺は、何度も何度も、後ろを振り返った。遠ざかっていく戦塵の向こうに。あの、小さな背中がある。俺を逃がすために踏みとどまった、背中が。
涙が、止まらなかった。
死ぬな。頼む、死ぬな。
お前は、家臣の中でただ一人、俺の本当の弱さを知っていて。それでも、味方でいてくれた男だ。
長政に続いて。お前までいなくなったら。俺は、どうすればいいのだ。
***
猿が。ハゲネズミが。俺を逃がすために。いちばん死に近い場所に、たった一人、残った。
俺は、馬の上で振り返りながら、声を殺して泣いていた。供の者には、ただ風が目にしみたのだと思われたかもしれぬ。
それでも、いい。
頼む。死ぬな、藤吉郎。
お前まで失ったら。
俺は、もう。
「頼む。死ぬな。お前まで、いなくなったら」――自分を逃がすため死地に残る猿を案じて泣く夜に、静かに涙したら、どうか【泣ける】を。続きはブックマークで。




