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第4話 退き口

悲しんでいる暇は、なかった。このままでは、前と後ろから押し潰される。逃げなければ。


そう考えるより、先に。俺の体は、もう動いていた。


「退くぞ」


俺は、短く言った。


声だけは、低く言い切った。家臣に、震えを悟られぬよう。


だが、心の中は、たった一つの言葉で埋め尽くされていた。


逃げたい。


逃げたい、逃げたい、逃げたい。


死にたくない。生きて帰りたい。帰蝶のいるところへ。


その一心が、ほかのすべての思考を追い越していった。


俺は、わずかな供だけを連れて。大軍を置き去りにして。戦線を離脱した。


馬の腹を蹴る。脇目もふらず。ひたすら京へ向けて駆ける。


総大将が。


軍を捨てて。


真っ先に逃げ出す。


情けないにもほどがある。後の世に語り草にもなろう。そんなことは、分かっていた。分かっていて、なお。俺の足は、止まらなかった。


駆けながら、俺は、何度も後ろを振り返った。追っ手が、来てはいないか。長政の兵が、朝倉の兵が、すぐそこまで迫っていないか。


木立の影が追っ手に見えて、ぞっとする。風の音が馬蹄(ばてい)に聞こえて、心臓が跳ねる。冷や汗で、全身が濡れていた。手綱を握る手が、滑るほどに。


それでも、俺は駆けた。


ただ生き延びたい、その一念だけで。


頭の隅で、ちらとよぎる。置き去りにしてきた大軍は、どうなるのか。あの兵たちは、俺のために命を賭けてくれているのに。


申し訳なさが、胸を突く。だが、それより恐怖のほうが、ずっと大きかった。


俺は、自分の情けなさに吐き気を覚えながら。


それでも、馬の腹を蹴り続けた。


生きたい。


その一心は、誇りも見栄も踏み潰して進んでいく。


朽木(くつき)という地を抜けるとき。土地の者が、道案内を買って出てくれた。


正直、それすら信じてよいのか怖かった。この者も、俺を谷底へ誘い込む罠かもしれぬ。


そう疑いながら。それでも、ほかに道はなく。俺は、震えながら、見知らぬ者の背中を追った。


裏切られたばかりの俺には。


人を信じることが、もうできなくなっていた。


***


俺は、逃げた。ただ、ひたすらに逃げた。死にたくない、その一心で。


そこに、計略も采配もなかった。あったのは、ただの恐怖だけだ。


大将が、真っ先に逃げ出すなど。情けないにも、ほどがある。


――なのに。


後に、このなりふりかまわぬ逃走は。「神算鬼謀(しんさんきぼう)の電撃撤退」として。恐ろしいほど立派な名で、語り継がれることになるのだ。


大将が真っ先に逃げ出す、なりふりかまわぬ全力撤退――情けなさに笑ったら、【笑える】を! この逃走がのちに何と語られるか。オチはブックマークで見届けてください。

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