第2話 越前へ
一五七〇年。
俺は、越前の朝倉を攻めることになった。例によって、攻めたくて攻めたわけではない。
上洛して将軍を担いだものの、俺の言うことを聞かぬ大名が各地にいる。越前の朝倉も、その一つだった。放っておけば、いつか背後から襲ってくるかもしれぬ。
背後、という言葉を思い浮かべるだけで、うなじのあたりがひやりとする。俺はいつだって、見えないところから来るものが、いちばん怖い。
ならば――怖いから、先に叩く。相手が牙を剥く前に、こちらから届かぬところへ押しのけておきたい。
いつもの、保身だ。勇ましくもなんともない。ただ、夜も眠れるようにしたいだけだった。
越前へ攻め入るには、近江を通る。近江の北は、長政の領地だ。
俺は、軍を進めながら、心の底から安堵していた。なにせ、背後を固めるのが長政なのだ。
妹の夫が、俺の背中を守ってくれている。これほど心強いことが、あるだろうか。
長政は、律儀で、誠実な男だ。俺は、あの真面目な顔つきが好きだった。妹のお市を大切にしてくれているのも、噂に聞いていた。血の繋がった身内よりも、俺はあの義弟を信じていたかもしれない。
人が怖くて、背中を見せるのが何より恐ろしい俺が。
このときばかりは、安心して前だけを見て進むことができた。背後を長政が塞いでいると思うだけで、うなじの冷たさが消えた。振り返らずに歩けるということが、俺にはどれほど楽だったか。
長政は、俺の出兵に協力的だった。兵を出し、道を整え、滞りなく軍を通してくれた。
俺は、ますます思った。やはり、長政は信じられる。
あいつだけは、裏切らない。妹の夫が、俺を裏切るはずがない。
その確信が。
俺の足を軽くし、俺の判断を大胆にした。
戦そのものは、順調だった。朝倉方の城を次々と落とし、軍は、越前の奥へ奥へと進んでいった。
家臣たちは、沸き立った。
「破竹の、ご進撃にございます」
「朝倉も、織田の勢いの前にはなすすべもなし。さすが、天下布武の御方」
俺は、曖昧に頷いた。進みすぎている、という嫌な感じはあった。
だが、背後には、長政がいる。何があっても、退くときは長政の領地を抜けて安全に帰れる。
そう思っていたから。俺は、不安を押し殺して、なお前へ進んだ。
***
その夜、陣中で。帰蝶が、ふと言った。
「殿。あまり深入りは、なさいますな」
「長政が、後ろにおる。案ずるな」
俺が、そう答えると。
帰蝶は、少し間を置いて、こう言った。
「……長政どのとて、人にございます。後ろに朝倉の血縁があり、前に義兄がおる。板挟みの、つらいお立場やもしれませぬ」
俺は、その言葉を深く考えなかった。長政に限って、そんなことはない。あいつは俺を裏切らない。信じたいものを信じているときの俺は、都合の悪いことに、驚くほど耳を貸さなくなる。帰蝶の心配性だ、とすら思った。
だが、帰蝶は板挟みの者の心を、俺よりずっとよく分かっていた。人が追い詰められて、どちらかを選ばねばならなくなったとき、何を捨てるのか。それを、あの女は静かに見抜いていた。
それが、どれほど的を射た言葉だったか。
俺は、まだ知らなかった。
***
俺は、安心していた。背後には、長政がいる。妹の夫が、俺の背中を守ってくれている。
そう信じて、疑わなかった。
その、疑わなかったことが。
間もなく、俺を、生涯でいちばん深く抉ることになるのだ。
「妹の夫が、俺の背中を守ってくれている」――疑わなかった安心が、やがて深く抉る予感にざわついたら、【いいね】か【びっくり】を! 見逃さないようブックマークを。




