第1話 義弟
俺は、人を信じるのが怖い。物心ついた頃から、ずっとそうだ。
笑いかけてくる相手の懐に、刃が隠されていないか。差し出された手が、俺を引きずり倒すための手ではないか。誰のことも、心の底からは信じられなかった。
なのに、たった一人だけ。
俺が心から信じてしまった男が、いた。
――妹の、夫だ。
浅井長政。
近江の小谷を治める若き武将で、俺の妹のお市を娶ってくれた男だ。つまり、俺の義弟ということになる。
この男が、とにかくまっすぐな、いい男だった。
律儀で、誠実で、嘘の匂いがまるでしない。会えば、俺のことを「義兄上、義兄上」と人懐こく慕い、剣の話、馬の話で、いつまでも笑い合えた。
人の前では低く言い切って、魔王のふりをしている俺が。
長政の前でだけは、ふと肩の力が抜けるのだ。
世間は、この縁組を、こう見ていた。
「織田は、妹を浅井に嫁がせ、近江の浅井を巧みに味方に引き入れた」
「さすが、天下布武の御方。縁組さえ調略の一手よ」
調略。一手。
聞くたびに、俺は苦笑する。そんな立派なものじゃない。
俺は、ただ妹に幸せになってほしかっただけだ。そして、できることなら、一人でいいから、損得ぬきで信じられる相手が欲しかっただけだ。
長政は、その両方を叶えてくれる男だった。
小谷を訪ねると、お市が嬉しそうに出迎えてくれた。長政の隣で笑う、妹の顔。
その顔を見るたびに、俺は胸の奥が温かくなった。人が怖くて誰も信じられない俺の人生に、こんなにもまぶしい光景があるのか、と。
長政が、酌をしながら言った。
「義兄上。何があろうと、この長政、義兄上のお味方にございます」
その言葉を、俺は一片の疑いもなく信じた。
信じてしまった。
***
帰蝶は、そんな俺を横で静かに見ていた。ある夜、ぽつりと言った。
「殿は、長政どのをずいぶん好いておられますな」
「……ああ」
俺は、素直に頷いた。
「あいつは、信じられる。妹も、幸せそうだ。俺には、もったいない義弟だ」
帰蝶は、何か言いかけて、けれど口をつぐんだ。その横顔が、ほんの少し案じるように曇っていたことに。
そのときの俺は、気づかなかった。
***
俺は、長政を信じていた。義弟というより、もう一人の弟のように。
人を信じるのが、あれほど怖かった俺が。生涯でただ一度、心の鍵を開けて見せた相手。それが、長政だった。
――だから、後で。
すべてが音を立てて壊れたとき。
俺は、どう受け止めればいいのか。
まるで分からなかったのだ。
人が怖くて誰も信じられない男が、たった一人だけ心から信じた相手――その眩しさに胸がじんとしたら、【にこにこ】か【いいね】を! この信頼の物語、続きはブックマークで。




