第7話 望まぬ高みへ
俺は、天下なんて欲しくなかった。ただ、怯えずに生きたかった。それだけだったのに、気づけば俺は、天下の真ん中に立たされていた。
一五六八年。俺は、足利義昭という人を奉じて、京へ上った。落ちぶれた将軍家の血を引く、その人を担いで。大軍を率いて、都へ入る。世にいう、上洛だ。
道々、沿道には人が群がった。
「あれが、織田の軍勢か」
「天下布武の御旗じゃ。ついに、織田さまが京へ」
俺の姿を一目見ようと、押し寄せる、人、人、人。俺は、そのおびただしい人波を見て――背筋が凍った。
人が、多い。多すぎる。この中に、何人、俺を狙う者が紛れているか、分かったものではない。弓を引く者が、いるかもしれぬ。鉄砲を構える者が。物陰から、刃を投げる者が。
京は、天下の真ん中だ。天下の真ん中ということは――天下じゅうから俺を狙う者が集まってくる場所だ、ということだ。
注目が集まれば集まるほど。仰がれれば仰がれるほど。俺を殺したい者の数も、増えていく。俺は、馬の上で南蛮胴の固さを確かめながら、ただ震えていた。
なのに、誰もが俺を仰いだ。
「織田さまは、ついに天下人への道を歩み始められた」
「天下布武の御旗のもと、乱れた世もいよいよ静まろう」
将軍を担ぎ、京を制した、若き覇者。それが、世の見る俺の姿だった。
違うんだ。俺はただ、田舎で。帰蝶と二人、誰にも怯えず、畑を耕して、静かに暮らしたいだけなのに。なぜ、こんな、いちばん人の多い、いちばん危ない場所まで来てしまったのだろう。
***
その夜。京の宿所で、俺は一人、膝を抱えていた。
そこへ、帰蝶がそっと入ってきた。俺の隣に腰を下ろし、しばらく黙っていてから、ぽつりと言った。
「ずいぶん、遠くまで来てしまいましたな」
「……ああ」
「もう、逃げ場のないところまで来てしまわれた。そうでしょう」
俺は、答えられなかった。帰蝶は、俺の本音を何もかも分かっていた。
「ですが」と、帰蝶は静かに続けた。
「私は、ここにおりますよ。どこまで上らされても。隣におります」
襖の向こうから、声がした。
「殿。薬湯を、お持ちいたしました」
藤吉郎だった。
「お腹を痛めておいででしょう。これをお飲みなされませ。京の水は、殿の腹には合いますまい」
俺の胃が痛んでいることを、言う前から見抜いている。俺は、薬湯を受け取った。温かさが、手のひらから染みてきた。
奥に、帰蝶。表に、藤吉郎。この望まぬ高みでも、二人だけは俺の本性を知って、俺の側にいてくれる。それだけが、俺の救いだった。
***
宿所の、別の一角では。光秀が、まだ灯りの下で書状を認めていた。
京に上れば、上ったで、調整する事は際限なく増える。あの男はまた、その真ん中ですり減っている。
俺たちは、みな望まぬ高みで無理をしていた。俺も。光秀も。ただ、俺には帰蝶と藤吉郎がいた。
あの男には――まだ、誰もいなかった。
***
俺は、天下なんて欲しくなかった。ただ、怯えずに生きたかっただけだ。なのに、気づけば天下のど真ん中に立たされていた。降りられぬ階段の、いちばん目立つ段の上に。
そして、この望まぬ高みで。俺はやがて――生涯で最も信じ、最も愛した、一人の義弟に背かれることになる。
「逃げ場のないところまで、来てしまいましたな」と分かってくれる帰蝶にじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 望まぬ高みで待つ、生涯最大の裏切り。見逃さないようブックマークを。




