第3話 相撲は最強の研究
俺は、相撲が好きだ――ということに、なっている。
諸国から力自慢を集めて、城の庭で取り組ませる。勝った者には、惜しげもなく褒美をくれてやる。米でも、金でも、欲しいと言えば刀でも。
家臣たちは、これを見て、しみじみ頷く。
「殿はまことに武を愛しておられる。強き者を集め、武の極みを究めんとなさるのだ」
違う。俺はただ、怖いのだ。
考えてもみてほしい。もし夜中に、刀を奪われたら。背後から、いきなり抱きつかれたら。狭い廊下で、組みつかれたら。そういうとき、刀は役に立たない。物を言うのは、素手の技だ。
俺は、その「素手で生き延びる手」を、一つでも多く知っておきたい。それで諸国から、本当に強い男たちを呼ぶ。呼んで、戦わせて、目を皿のようにして見る。
あの男は、どうやって相手の腰を浮かせた。あの大男は、どうやって小柄な相手に転がされた。あの足の運び、あの手の差し込み――よし、覚えた。今夜、土間で試そう。
だから褒美も弾む。強い技を一つ見せてくれた礼に、米俵を積む。命を守る手立てを買うのに、惜しい銭などあるものか。
それを、また、誤訳される。
「殿は、強き者には身分を問わず報いられる。なんという器の大きさよ」
器なんてものはない。あるのは、保身だ。
――それに、もう一つ。
ここには、刃物がない。
土俵に上がる者は、丸腰だ。帯刀は許さぬ。懐に呑んだ匕首も、袖に隠した針も、裸になればすぐ知れる。
考えてみてほしい。城のどこにいても、俺の傍には刀がある。家臣の腰にも、廊下の暗がりにも、膳を運ぶ小姓の盆の下にすら、刃が潜んでいるかもしれぬ。飯を食う間も、眠る間も、俺はそれに怯えている。
だが、土俵の上だけは違う。向き合う相手は、生まれたままの裸。隠せる得物など、どこにもない。襲ってくるとしても、それは素手だ。素手なら――俺は、これだけ研究した。逃げる手も、躱す手も、知っている。
だから俺は、土俵の縁に座っているときだけ、ほんの少し、息ができる。この国で、刃を恐れずにいられる、たった一坪。
それが、俺にとっての相撲だ。
その日も、組み伏せられた相手が「参った」と叫ぶのを見ながら、俺はぞくりとした。あんなに簡単に、人は人を押さえ込めてしまうのか。あれが俺の首だったら。あれが俺の喉だったら。冷や汗が、背を伝う。
だが――それでも俺は、たまに、自分でも下りていく。
廻しを締め、肌をさらし、力士と向き合って、組む。
ぶつかった胸に、相手の体温が伝わる。汗ばんだ腕が、俺の背に回る。荒い息が、耳のすぐそばで鳴る。
熱い。
人の体は、こんなに、熱いのか。
俺は、人が怖い。間合いに入られるのが、たまらなく怖い。だから誰とも、近くにいられない。膳を共にする家臣とすら、いつも一間は空けている。手を握られたことも、肩を抱かれたことも、覚えている限り、ない。
なのに。
土俵の上でだけ、俺は人の肌に触れていられる。相手は丸腰で、刃はなく、何を企んでいるかも、組み合えば体で分かる。だから――怖くない。怖くないから、近づける。近づけるから、触れられる。
組み合っている間だけ、俺は、この世にたった一人ではないような気がするのだ。
ばかばかしい話だ。天下の織田の嫡男が、人肌が恋しくて相撲を取っているなどと。誰にも、言えやしない。
だから今日も、俺は号令をかける。
頼む。
誰でもいい。
本当に強い手を、一つでいいから、俺に教えてくれ。
そして願わくは――もう少しだけ、俺と、組んでくれ。
俺はただ、明日も生きていたいだけなんだ。
――そんな俺の必死を、庭を囲む者たちは、こう囁き交わしていた。
「織田のうつけは、武に取り憑かれておるそうな」
「いや、あれはもう、武の鬼神よ」
「ただ生き延びたいだけ」の護身研究が武神と誤訳される落差に頷いたら、【笑える】か【びっくり】を! 続きを見逃さないよう、ブックマークに入れておいてくださいませ。




