第2話 サトイモと筋肉
腹が、減っている。
俺にとって、これは一大事だ。世間の人間が思う何百倍も、深刻な事態だ。
腹の虫が鳴るたびに、俺の背には、うっすら冷や汗が滲む。他人が聞けば、大げさな、と笑うだろう。だが、俺は本気だ。
なぜなら、腹を空かせると、筋肉が落ちるからである。人の体というのは、飯を抜くと、まず筋から削れていくらしい。俺は誰に聞いたわけでもないが、自分の体で確かめて、それを知った。鍛えても鍛えても、二日飯を抜けば、腕がひと回り細くなる。せっかく積み上げた命綱が、するすると痩せ細っていく。あの感覚が、たまらなく恐ろしい。
筋肉が落ちれば、どうなる。
暗殺者に襲われたとき、振りほどけない。逃げ切れない。組み伏せられて、終いだ。
つまり、腹が減るというのは、俺にとって「死が一歩近づく」のと同じことなのだ。
だから俺は、馬に乗りながら、餅を食う。歩きながら、干し柿を齧る。評定の途中だろうが、町なかだろうが、腹の虫が鳴いた瞬間に、腰の袋から何かを引っぱり出して、口に放り込む。
とりわけ重宝するのが、サトイモだ。煮ても焼いても、生でも、どこででも齧れる。腹に溜まる。筋肉が、減らずに済む。ひとつ袖に忍ばせておけば、いざというとき、心強い。ほかの何より、心強い。
だから俺は、常にサトイモを手放さない。評定の席でも、ふとした拍子に袋へ手が伸びる。もそもそと齧っていると、不思議と、少しだけ落ち着く。
これを、家臣たちは、こう見ている。
「殿は、行軍の最中ですら食を断たぬ。まるで飢えた狼のごとし」
違う。断固として、違う。
まあ――飢えた狼は、死にたくないから食う。俺も、死にたくないから食う。そこだけは、認めよう。合っている。
だが狼は、筋肉が落ちるのを恐れて、震えながら芋を齧ったりはしない。
夜は夜で、俺は土間で槍を振る。汗だくになって、息が上がるまで。柱を相手に組手の形を繰り返し、重い石を担いで坂を駆ける。爪が割れ、手のひらが裂け、それでもやめない。
やめれば、頭に浮かんでしまうからだ。今この瞬間にも、闇の向こうから誰かが忍び寄ってくる姿が。腕が萎えて、その手を振りほどけずに、喉を裂かれる自分の姿が。だから振る。恐ろしくて、振る。石を担ぐたび、俺は「まだ死にたくない」と、心の中で唱えている。
世間は、これを見て「武勇に秀でた若殿」と言う。
馬鹿を言え。
俺は、強くなりたいわけじゃない。
ただ、死にたくないだけだ。
この異様に膨らんだ腕も、岩のような腹も、勇気の証なんかじゃない。臆病の証だ。怖くて怖くて、震えながら積み上げた、命乞いの結晶だ。この鎧を、俺は肉で織った。骨で編んだ。誰にも脱がされぬように。
槍を置いて、息を整える。汗が、顎から滴って落ちる。
サトイモを一つ齧って、俺は夜空を見上げる。
人は、笑って近づいてきて、平気で裏切る。だが、筋肉は、裏切らない。
少なくとも、人よりは。ずっと。
「筋肉が落ちたら暗殺者に勝てない」と大真面目にサトイモを齧る滑稽に噴き出したら、【笑える】か【いいね】を! ビビリの筋トレ、この先も見守りたい方はブックマークを。




