第1話 うつけと呼ばれて
俺は、生まれてこのかた、ずっと何かに怯えて生きてきた。
朝、目を覚ますたびに、まず思う。今日も、誰かが俺を殺しに来るかもしれない、と。
薄目を開けて、天井の梁を確かめる。次に、寝床のまわりの闇を探る。人の気配はないか。畳の擦れる音はしないか。障子の向こうに、影は差していないか。そこまで確かめて、ようやく、詰めていた息を、細く吐き出す。ここまでが、俺の朝だ。
戦国の世だ。隣の国の大名も、同じ城の家臣も、下手をすれば飯を運んでくる小姓だって、いつ刃を抜くか分からない。父も、その父も、寝首をかかれるのを恐れて生きてきた。織田家の嫡男に生まれた、というのは、要するに「いちばん狙われやすい的」に生まれた、ということだ。
的は、逃げられない。的は、ただそこに在って、射られるのを待つしかない。そう考えると、朝から胃の腑が、きゅうっと縮む。
だから俺は、町を歩くとき、こういう格好をする。
茶筅に結っただけの、ぼさぼさの髷。湯帷子を肩からだらしなく脱いで、片肌を出す。腰には火打ち袋に、瓢箪に、餅やら干し柿やらをぶらさげる。
餅を齧りながら、腰の瓢箪をぶらぶらさせて、わざと足元をよろけさせて歩く。
那古野の町衆は、俺を見ると、こそこそ袖を引き合って笑う。
「ご覧なされ、織田のお家の大うつけよ」
「あれが跡継ぎとは、尾張も終いじゃのう」
聞こえている。全部、聞こえている。けれど、それでいい。むしろ、それがいい。
俺は、人が、怖いのだ。
笑っているこの町衆だって、本当は何を考えているか分からない。にこにこ近づいてきた誰かが、懐に短刀を呑んでいないと、どうして言える。膝をついて頭を下げてくる相手が、その懐で刃を握りしめていないと、どうして言い切れる。
無理だ。俺には、言い切れない。誰のことも、信じ切れない。だから俺は、近づかれたくない。近づかれるくらいなら、笑われていたほうが、ずっといい。
「あいつは変な奴だ」と思われていれば、人は距離を取る。距離が取れれば、刃も遠い。刃が遠ければ、俺は今日も生き延びられる。
このだらしない格好は、俺なりの、必死の鎧なのだ。笑われるための、渾身の細工なのだ。誰にも、言えないけれど。
――そのはずだった。
ところが、だ。ただ一人、町外れの古い茶屋の前で、白髪の老人が、笑わずに俺を見送ったことがあった。じっと、底を覗くような目で。
「……あのうつけ殿は、底が知れぬ」
そう、ぽつりと呟いたのを、俺は聞いてしまった。
やめてくれ、と思った。心の臓が、どくんと跳ねた。底なんてない。あるのは、震えている臆病な腹の底だけだ。うつけの皮を一枚めくれば、ただ怯えた男が一人、うずくまっているだけなのだ。それを、見透かさないでくれ。
俺は瓢箪の水を一口飲んで、老人に背を向け、足を速めた。背中に、あの目が張りついているようで、なかなか振りほどけなかった。
明日もまた、誰かが俺を殺しに来るかもしれない。うつけの皮も、いつまで俺を守ってくれるか分からない。だったら、やることは、一つしかない。
震える手を握りしめて、俺は思う。
――強く、ならなくては。
「大うつけ」の異装に、実は女避け・護身の裏があると知ってニヤッとしたら、【笑える】を! この臆病者の一代記、続きが気になったらブックマークで一緒に見届けてください。




