第3話 天下布武
たった四文字の印が、戦国のすべてに向けた果たし状になった。俺は、そんなつもりはまったくなかったのに。
地名の次は、印だった。
「殿。書状に捺す御印を、新たにお作りなされませ」
また、例の学者たちだ。
「天下の主たるお方には、それにふさわしい御印が入り用にございます」
俺は、ため息をついた。正直、印などありものの花押で十分だと思っていた。だが、断ればまた、長々と説かれる。あの熱意に付き合うくらいなら、適当に頷いておいたほうが楽だ。
「儂は構わぬ。何かめでたい字を並べておけ」
俺は、低い声で短く言い捨てた。内心は、ただ面倒事を早く終わらせたかっただけだ。だが家臣には、その素っ気なさが「些事に拘らぬ大器の風格」と映ったらしい。
学者たちは、何やらひそひそと相談し、やがて一枚の紙を差し出してきた。そこには、こう書かれていた。
『天下布武』
「武をもって、天下に平らかな世を布く。――殿のご大望を、四文字に込めましてございます」
俺は、その四文字を見つめた。
天下、布、武。
正直に言えば、字面が立派だな、と思った。それだけだ。
「武」の字が、少しだけ引っかかった。俺は本当は、武など振るいたくない。刀も、槍も、戦も、怖い。血を見るのも嫌だ。できることなら、「天下泰平」とか「無事息災」とか、そういう穏やかな字にしてほしかった。
だが、それを言うのも面倒だった。学者に「なにゆえ、武の字をお嫌いか」などと問い詰められたら、答えに窮する。まさか、「戦が怖いからだ」とは言えぬ。だから、めでたい字だと言うのだから、まあいいだろう、と流した。
「うむ。これでよい」
俺は、その印を用い始めた。ただの、四文字の判子として。
その判子を。俺は、諸国への書状に捺した。挨拶の書状にも。和議の書状にも。何でもない、ただの便りにも。赤い印が、ぺたりと捺される。
『天下布武』
すると――書状を受け取った相手は、ことごとく青ざめた。
「織田の書状に、見慣れぬ印が」
「『天下布武』――武をもって、天下を布く、と」
「これは……織田信長が、天下を武で平らげると、公に宣言したということではないか」
俺は、また頭を抱えた。
違う。ただの、判子だ。学者が並べた、めでたい字を、勧められるまま捺しているだけだ。なのに、その四文字は、捺すたびに相手を震え上がらせた。
「織田は、本気で天下を獲りに来る」
そう読んだ大名たちは、いっそう警戒を強めた。あちこちで、織田に備える動きが始まったらしい。中には、わざわざ使者を寄越して、こちらの真意を探ってくる者もいた。
「『天下布武』とは、いかなるご存念にて」
そう問われるたび、俺は返答に困った。まさか、「学者に勧められて、字面が立派だったから捺しているだけだ」とは言えぬ。そんなことを言えば、軽んじられる。軽んじられれば、攻められる。だから俺は、口をへの字に結んで、ただ黙っていた。
すると、使者は勝手に青ざめた。「お言葉もない。底知れぬ、ご覚悟じゃ」と。俺は、ただ答えに詰まっていただけなのに。
つまり――俺が書状を出せば出すほど、黙っていれば黙っているほど、敵が増えていくのだ。
***
夜、俺はその印を手に取って、眺めた。
赤い、四文字。俺にとっては、ただの判子だった。だが、世間にとっては。
これは、戦国のすべての大名に向けた――果たし状だったのだ。
「勝手に、読むな」
俺は、誰にも聞こえぬ声で呟いた。俺はただ、断るのが怖くて。流されるまま、立派な字を捺しているだけなのに。
その印の重みが、日に日に俺の肩にのしかかってくるのを、感じていた。
めでたい字を並べただけの四文字が、戦国全土への果たし状に化ける――勝手に読むな、と泣きそうな滑稽にやられたら、【笑える】を! 章タイトル回の続きを、ブックマークで見届けてください。




