第2話 岐阜と名づけよ
地名を一つ変えただけで、天下取りの宣言にされた。そんな話が、あるだろうか。俺の身に、それが起きたのだ。
美濃を手に入れて、しばらくした頃。俺の周りに集まってきた学者だの僧だのが、しきりにこう勧めてきた。
「殿。この井ノ口の地、新たな御本拠とあらば、名も改められては、いかがか」
正直に言えば、俺は地名などどうでもよかった。井ノ口でも何でも、住めればそれでいい。
だが、その学者はやたらと熱心だった。目を輝かせ、身を乗り出して、滔々と語り続ける。
俺は、人の熱意というものが苦手だ。熱を込めて何かを勧めてくる者を見ると、どうしていいか分からなくなる。断れば、機嫌を損ねるかもしれぬ。怒らせれば、恨まれるかもしれぬ。恨まれれば、いつか刺されるかもしれぬ。
俺の頭の中では、いつもそうやって、最後は「刺される」ところまで話が転がっていく。人に恨まれるのが、怖い。だから、なるべく相手の言う通りにしておきたい。そう考えると、もう断るどころではなかった。
「ならば」と、俺は低く言った。家臣の前では、いつものように声を押し殺して、短く言い切る。
「儂は、地の名にこだわらぬ。そなたに任せる。よき名をつけよ」
学者は、ぱっと顔を輝かせた。そして、うやうやしくこう述べたのだ。
「では――『岐阜』と、いかがでしょう」
岐阜。
聞いたこともない、字面だった。
「いにしえの聖天子、周の文王は、岐山という地より起こり、ついに天下を平らげましてございます。その故事にあやかるのでございます。岐山の岐、曲阜の阜。『岐阜』――天下を平らぐ地の名にてございます」
俺は、半分も聞いていなかった。ただ、字面が立派そうだったので。
「うむ。それでよい」
と、頷いた。それだけのことだった。
ところが。この「岐阜」という名が、とんでもない波紋を呼んだ。噂は、瞬く間に諸国へ広がった。
「織田が、本拠の名を岐阜と改めたそうな」
「岐阜とは、古の聖天子・周の文王が天下を平らげた、その故事にちなんだ名じゃと」
「つまり――織田信長は、自らを天下を平らげる者になぞらえたのよ。なんという、気宇壮大」
俺は、それを聞いて頭を抱えた。
待ってくれ。俺はただ、断るのが面倒で、怖くて。学者の言うまま頷いただけだ。『岐阜』の由来も、正直、半分も覚えていない。
なのに、諸国の大名たちは、本気で戦慄したらしい。
「信長は、本気だ。天下を獲る気だ。地の名にまで、その志を刻みおった」
「いにしえの聖天子に、自らをなぞらえるとは。なんという、大それた男よ」
そう言って、こぞって身構えた。俺の城下では、商人や職人や旅の者が、その地名を口にする。「岐阜の市は、賑わっておる」「岐阜の殿さまは」と。その一言一言が、口から口へ、国から国へと伝わるたび。「岐阜=天下を平らげる者の城」という、ありもしない俺の野望が、ひとりでに膨れ上がっていく。
俺と、誼を結ぼうとする者。俺を、警戒し、敵に回そうとする者。たった一つの地名が、俺の知らぬところで、戦国じゅうの大名を動かしていく。
俺はただ、断るのが怖かっただけだ。なのに、その地名は――俺のあずかり知らぬ間に、「天下を獲る」という、とんでもない宣言に化けていた。
「ただ、断るのが面倒で頷いただけ」の地名が、天下平定の宣言に化ける――動機の空洞の落差に笑ったら、【笑える】か【びっくり】を! 看板の独り歩きを、ブックマークで。




