第4話 藤吉郎だけは、味方だ
その夜から、何かが変わった。俺と、藤吉郎の間で。
口に出して、何かを約束したわけではない。ただ、俺は知っていた。こいつは俺の正体を知っている。そして、それを決して漏らさない。藤吉郎も知っていた。俺がそれを知っていることを。二人だけの、秘密だった。
それからの藤吉郎の世話焼きは、いっそう行き届くようになった。
俺が怖がる前に、怖いものが片づいている。俺が胃を痛める前に、薬湯が用意されている。俺が人に疲れる前に、要らぬ客が追い返されている。
不思議なものだ。こいつは、俺が「怖い」と口にする前に、俺が何を怖がっているかを察してしまう。俺自身より先に、俺の胃の痛みに気づいている。
「殿は、お忙しい。後日になされませ」
そう言って、藤吉郎は俺の苦手な客人を、にこやかに捌いてしまう。俺は何もしなくていい。ただ、奥に下がって震えていればいい。
震えていても、笑われない。逃げても、蔑まれない。この男の前でだけは、俺は魔王の顔を作らなくてよかった。
考えてみれば。俺の人生は、ずっと気の休まらぬものだった。
人が、怖い。背後が、怖い。刃物が、怖い。だから、誰の前でも気を張って、魔王の仮面をかぶり続けてきた。その仮面は、一度かぶれば外せない。外した瞬間に喉を掻き切られる気がして、寝ているあいだですら、俺は歯を食いしばっている。
その仮面を外せる相手は、ただ一人――帰蝶だけ、だった。奥に下がって、帰蝶の前でだけ、俺は息ができた。肩の力が抜けて、ようやく、ただの怯えた男に戻れた。
だが、いまは。表にも、一人、いる。
藤吉郎の前でだけは、俺は見栄を張らなくていい。怖がってもいい。震えてもいい。こんなに楽なのは、初めてだった。
俺は心の中で、何度もつぶやいた。
帰蝶と、藤吉郎。
奥の帰蝶と、表の藤吉郎。この二人の前でだけ、俺はちゃんと息ができる。
世間のすべてが、俺を化け物だと恐れても。この二人だけは、俺をただの臆病な男のまま、側にいてくれる。
藤吉郎だけは、味方だ。
そう思うと、長いことずっと凍えていた胸の奥が、じんわりと温かくなった。怖くて、孤独だった俺に。とうとう、二人目の味方ができたのだ。
思えば俺は、土俵の上でしか、人の温もりに触れたことがなかった。刃物を持ち込めぬ裸の力士とだけは、怯えずに肌を合わせられた。それが俺の、たった一つの人恋しさの逃げ場だった。
だが、いまは違う。土俵の外にも、俺のそばにいて怖くない者が、二人もいる。
俺は、決めた。この猿だけは、何があっても手放さない。側に置いておく。出世もさせてやる。俺の側にいられるように。それが俺にできる、精一杯の礼のつもりだった。
だが。俺がこの奇妙な猿を引き立てれば、引き立てるほど。家中の者たちは、それをまったく別の意味に取り始めていた。
たとえ、世間が何と言おうと。俺はこいつだけは手放すまいと、心に決めていた。
「この二人の前でだけ、俺は、息ができる」――気を許せる相手を得た温かさにじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 手放さないと決めた主従の続きを、ブックマークで。




