第5話 墨俣の砦
美濃攻めの頃の話だ。
俺は、川を一つ隔てた敵地の、目と鼻の先まで兵を進めていた。斎藤の城が、すぐそこに見える。そんな場所に、砦を一つ築きたかった。攻めの足がかりとして、どうしても要る。
だが、これが難しい。築こうとすれば、敵がすぐに邪魔をしに来る。半ばで、必ず壊される。
家中の誰もが、尻込みした。
「あんな敵地の鼻先に、砦など立てられるものか」
だが、俺には別の、切実な事情があった。俺はその最前線で、毎晩一睡もできずにいたのだ。
囲いもない、野営の陣。夜になれば、闇の向こうから、いつ敵が忍び寄ってくるか分からない。風で草が鳴るたびに、俺は飛び起きた。冷や汗で、寝間着がびっしょりと濡れた。
壁が、欲しかった。囲いの中で、眠りたかった。ただ、それだけの理由だった。
***
ある日の、夕暮れ。
俺は、藤吉郎だけを連れて、川辺に立っていた。二人で並んで、暮れゆく川を眺めていた。藤吉郎はこういうとき、決して余計な口をきかない。ただ、そばにいてくれる。
俺は流れる水の音を聞きながら、ぽつりと本音を漏らした。
「……猿。俺は、あそこに、砦が、欲しい」
「はい」
「攻めの足がかり、などではない。……夜が、怖いのだ。壁のない夜が。囲いの中で、眠りたい。それだけだ」
我ながら、情けない話だった。天下の織田家を背負う身が。夜の闇が怖くて眠れぬ、などと。
藤吉郎は、しばらく黙っていた。
そして、ふと「殿。ちと御無礼を」と断って、川辺へ寄っていく。俺も、つられて、その隣に並んだ。……一人、その場に残されるのが、どうにも心細かったのだ。
二人、川へ向かって、並んで用を足す。天下の織田家を背負う身と、その懐刀が。夕暮れの川辺で、揃ってこれである。我ながら、締まらぬ光景であった。
だが。その隣で、藤吉郎はしきりに、水の面を、じっと見ていた。俺が上手で落としたものが。流れに乗って、あっという間に下手へと運ばれ、消えていくのを。
「……猿、あまり見るでない。照れるではないか」
やがて、帯を直すと、藤吉郎は静かに口を開いた。
「……殿。材は、運ばずともよいのです」
「なんだと」
「上で組んで、あとは流してやればよい。――ちょうど今、殿が流したのと、同じに」
俺には、まだ何のことか分からなかった。
***
藤吉郎の機転は、見事なものだった。
正面から材を運び込めば、敵に気づかれて潰される。ならば、と藤吉郎は、川上の、敵から見えぬ場所で、あらかじめ柵や壁の材を、すっかり組み上げた。それをいくつもの筏に載せて、川の流れに乗せ、一気に現地まで流し下す。ちょうど、あの夕暮れ、俺が川面に流してみせた、あのとおりに。
あとは、組み上げるだけだ。敵が気づいて駆けつけた頃には。そこにはもう、囲いと壁を備えた、立派な砦が立っていた。驚くべき、早さだった。
俺は、その壁の内側に入った。そして、ようやく息をついた。
ああ。これで、眠れる。壁の中で、囲いの中で、夜の闇を怖がらずに眠れる。
そう思うと、俺は泣きたいくらい、ほっとした。
藤吉郎は、分かっていたのだ。俺がただの足がかりとして砦を欲したのではないことを。囲いのない夜に、怯えて震えていることを。だから、一刻も早く俺を安全な壁の内側に入れてやりたかったのだ。
***
この墨俣の砦の話も、後にたいそうな伝説になった。
いわく――あの男は、たった一夜で城を一つ立ててみせた、と。
家中の者は、驚嘆して言った。
「あの小男、やはりただ者ではない」
「殿がお引き立てになるだけのことはある。魔王が見出された、異能の士じゃ」
世には、一夜で城が立ったと伝わっている。本当に一夜だったかどうかは、俺も知らぬ。
ただ、確かなのは。あの猿は、俺を一刻も早く安全な壁の中に入れてやりたかった――それだけ、だったということだ。そして、その大手柄のきっかけが。夕暮れの川辺で、俺とあの猿が、並んでちょいと用を足していた――ただ、それだけのことであったのを。知っているのは、俺と、あの猿だけ、だった。
「一刻も早く、安全な壁の中に入れたかったんだ」――異能と讃えられた機転の真相にニヤけたら、【笑える】か【にこにこ】を! 伝説の裏側を追いに、ブックマークへ。




