第1話 奇妙な猿
俺の生涯で、たった二人だけ、俺の正体を見抜いた者がいる。
一人は、帰蝶。
そして、もう一人が――この猿だった。
***
桶狭間の翌年のことだ。俺はいよいよ、誰にも近づかれなくなっていた。
二万五千を二千で破った男。義元の首の前で、返り血を浴びて吼えた男。第六天魔王。
そんな噂がひとり歩きして、家臣たちは俺を見ると、目を伏せて道を空けるようになった。
廊下で行き会えば、壁に張りついて息を殺す。膳を運ぶ小姓の手は、いつも小刻みに震えている。俺が咳ひとつすれば、その場の全員が凍りついた。
ありがたいことだ、と思うべきなのだろう。誰も近づかなければ、誰も刃を向けてこない。臆病な俺には、それこそ望んでいた壁のはずだった。
だが、俺の本音はただ、寂しかった。
怖がって、震えて、泣いていただけの俺を、みんなが化け物だと思って離れていく。
一人になれば安心だと思っていたのに。いざ一人になってみると、胸の奥がしんと冷えて、なんだか、無性に人恋しかった。
近づいてくる者は、一人もいない。
いや。
一人だけ、いた。
清洲の庭先で、薪を運び、馬の世話をし、厠の掃除をする、下働きの男たちの中に。一匹、妙な猿が紛れていた。
小柄で、痩せていて、顔はまさしく猿だった。目ばかりが、やたらとよく動く。
身分は最も低い。草履取りだの奉公人だのと呼ばれる、最下級の奉公人だ。名を木下藤吉郎、といった。
その藤吉郎が、どういうわけか、俺の周りをうろちょろするのだ。
俺が寒さに肩をすくめれば、いつのまにか火桶が足元に置かれている。俺が人混みに気疲れして奥へ下がれば、誰よりも先に廊下から人を払っている。俺が何も言わぬうちに、欲しいものがそっと目の前に差し出されている。
しかも、この男は俺を怖がらない。俺が近づいても震えない。俺が睨んでも(睨んだつもりもないのに、俺の顔はいつも怯えで強張っているだけだが)にっと笑い返してくる。
気味が悪かった。
魔王と恐れられて、誰もが逃げていく中で、この小男だけが平気な顔で、俺の懐にするすると入り込んでくる。
何を、企んでいる。刺客か。俺の隙をうかがっているのか。背筋に冷たいものが走って、俺は幾度もこの猿を遠ざけようとした。
だが、遠ざけようとするたびに、少しためらった。
というのも、正直に言えば、妙に、楽だったからだ。こいつが近くにいるときだけ、いつも張りつめている俺の肩から、ふっと力が抜けるのだ。
家中の者は、この猿を訝しんだ。
「あの薄気味悪い小男は、何だ」
「身分も知れぬ奉公人が、なにゆえ、殿の御側を、うろついておる」
俺も、同じことを思っていた。
何者なんだ、こいつは。
ただの目ざとい、調子のいい男なのか。それとも、俺に取り入って何かを企んでいるのか。
だが、いくら警戒しても、この猿を追い払う気には、どうしてもなれなかった。
魔王だと恐れられ、皆に道を空けられるたび、俺の胸には隙間風が吹いていた。その隙間に、こいつだけが、平気な顔で入り込んでくる。追い払えば、また一人に戻ってしまう。それが――怖かった。刃物よりも、暗がりよりも。もう一度あの独りきりの寒さに戻ることが、俺には、いちばん怖かったのかもしれない。
このとき俺は、まだ知らなかった。この奇妙な猿が、帰蝶に次いで、俺の本性を根こそぎ見抜いていたことを。そして、この男が生涯、俺の隣にいてくれることを。
魔王と恐れられ誰も近づかない中、なぜかこの小男だけが平気でうろつく――そのおかしみに笑ったら、【笑える】か【にこにこ】を! 二人目の理解者の物語、続きはブックマークで。




