第8話 帰る場所
俺の帰る場所は、天下なんかじゃなかった。
清洲の城は、勝ち戦の喜びに沸き返っていた。家臣たちが、口々に俺を称えた。新時代の大将じゃ、第六天魔王じゃ、と。
だが、その声は、どれも俺の耳を素通りしていった。俺の頭の中には、まだ、あの、倒れた人々の姿がこびりついて離れなかった。
***
夜。
ようやく、一人になれた。
いや、一人ではなかった。帰蝶が、いた。
部屋に入ってきた帰蝶は、俺の顔をひと目見るなり、何もかも察したようだった。家臣たちが英雄を見るのとも、世間が魔王を恐れるのとも、まるで違う目で。帰蝶は、ただ静かに俺を見ていた。
誰の前でも、俺は震えを隠し、言葉を呑み込んで生きてきた。臆病を悟られれば、たちまち命を狙われる。だから、人と心を許して向き合うことができない。それが、俺の抱えた、もう一つの病だった。
だが、この人の前でだけは、隠さなくてよかった。
「帰蝶」
俺は、その名を呼ぶのが、やっとだった。
「俺は……とうとう、止められなかった。あれを。稲生のときは、寸前で引っ込んだ。だが、今度は……完全に、目を覚まさせてしまった」
声が、震えた。
「たくさん、殺した。数えきれないほど。義元殿まで……俺は、この手で……」
そこから先は、言葉にならなかった。俺は、帰蝶の前で、また泣き崩れた。城の主が、勝ち戦の夜に、子供のように。
帰蝶は、俺を責めなかった。呆れもしなかった。ただ、俺の傍らに膝をつき、まだ汗と血の残る俺の手を、両手で包んだ。そして、布で、その汚れを、一つひとつ丁寧に拭ってくれた。
指の股に染みついた血も、爪の間に固まった汚れも、帰蝶は嫌な顔ひとつせず、ゆっくりと拭っていった。まるで、俺の中にこびりついた罪まで、一緒に拭おうとしてくれているようだった。
その手の動きを見ているうちに、暴れていた心臓が、少しずつ、静かになっていった。
「殿」
静かな声だった。
「お前は、ちゃんと泣いておる」
「勝って、なお、殺した相手のために泣ける男が、どこにおる。世間は、お前を魔王と呼ぶ。じゃが、わらわは知っておる」
帰蝶の手は、温かかった。
「化け物は、泣かぬ。お前は、まだ、お前のままじゃ」
その言葉に、俺は、すがった。
人が怖いはずの俺が、この手だけは、どうしても離せなかった。世間が、いくら俺を魔王だと、恐ろしいお方だと崇めても。この手の温もりだけが、俺を、ただの臆病な一人の男のままで、いさせてくれた。
思えば、俺が誰かの体温にこうして触れられるのは、ごくわずかな時だけだった。土俵で、丸腰の相手と組み合う一瞬。そして、この、帰蝶の手の中。
人が怖くて、誰とも距離を取らずにいられない俺にとって、この温もりは、この世でたった一つの、逃げ込める場所だった。
***
俺の帰る場所は、天下なんかじゃなかった。この、小さな手のぬくもりの中だけだった。
ただ、皮肉なことに。桶狭間で生まれた「第六天魔王」の名は、これから、俺の意思とは関係なくひとり歩きして、俺を、望みもしない高みへと押し上げていくことになる。
そして、その翌年――俺の前に、一匹の奇妙な猿が現れることになる。
「化け物は、泣かぬ」――世が魔王と崇める中、汗と血を拭ってくれる帰蝶の手にじんときたら、【にこにこ】か【泣ける】を! 次に現れる奇妙な猿まで、ブックマークで見逃さずに。




