第7話 第六天魔王
こうして、第六天魔王は、生まれた。震えて、泣いていただけの、一人の臆病者の抜け殻から。
俺が首の前で泣いていた、ちょうどその頃。桶狭間の報せは、もう尾張じゅうを駆け巡りはじめていた。そして、その報せは――行く先々で、勝手に尾ひれをつけていった。
***
「聞いたか。上総介殿が、たった二千で、二万五千の今川を破られたそうな」
「あの海道一の弓取り、義元公を討ち取られたという」
「二千で、二万五千を……まことか。人の業とは、思えぬ」
寡兵で、大大名を討つ。それは、誰の目にも、奇跡か、さもなくば人ならざる業に見えた。
噂は、加速していった。
そして、義元の首の前で泣いていた、あの姿が。伝わるうちに、こうなった。
「義元公の首の前で、上総介殿は、返り血を滴らせ、目には涙すら浮かべて、吼えておられたという」
「涙を……?」
「怒りの涙よ。敵への、激しい怒り。返り血を浴びて、なお猛り狂う。あれは、人ではない」
「聞けば、義元公の首の前で、何か言葉を発しておられたとか」
「呪いの言葉であろう。討ち取った敵将にすら、容赦のない呪詛を吐きかける。ぞっとするお方じゃ」
「鬼神じゃ。いや――第六天魔王の再来じゃ」
第六天魔王。仏法を妨げ、世を乱す、魔界の王。その名が、いつの間にか、俺の二つ名になっていた。
俺が震えて泣いていただけだと知る者は、一人もいなかった。冷や汗を、不敵さと。返り血を、修羅と。号泣を、怒りの咆哮と。何もかもが、ねじれて伝わっていった。
「ごめんなさい」が「呪いの言葉」になり、「殺すつもりはなかった」という嗚咽が「勝鬨」になる。俺の中でいちばん弱くて、いちばん情けない部分が、伝わるうちに、いちばん恐ろしいものへと化けていく。
まるで、俺という人間の像が、俺の手の届かないところで、勝手に鋳造されていくようだった。
違う。
何度でも言わせてくれ。
俺は、魔王なんかじゃない。怖くて、暴れて、たくさん殺してしまって、申し訳なくて泣いていただけの、ただの臆病者だ。
なのに、世間は、俺を化け物だと言う。恐ろしいお方だと、敬い、怯え、遠巻きに平伏する。俺が、一番なりたくなかった姿に。
***
桶狭間の後、もう一つ、報せが流れてきた。
長く今川の人質となっていた三河の若い領主が、義元の死で、ようやくその手から解き放たれたという。岡崎へ帰ったらしい。
その名を聞いたとき、俺は、なぜか、ほんの少しだけ胸が温かくなった。理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、遠い昔、同じように怯えていた小さな影を、ふと思い出しただけかもしれない。死ぬのが怖いと、二人で震えていた頃を。あいつも、ようやく自分の家に帰れたのか、と。
そのことが後の俺に何をもたらすか――まだ、知る由もなかった。
***
こうして、第六天魔王は、生まれた。震えて、泣いていただけの、一人の臆病者の抜け殻から。
震えて泣いていただけの臆病者の抜け殻から、伝説が生まれる――皮肉な誕生の瞬間に唸ったら、【びっくり】か【笑える】を! 魔王の育つ物語、ブックマークで見届けを。




