第3話 豪雨
馬の背に揺られながら、俺は、一歩ごとに後悔していた。
なぜ、出てきてしまったのか。あの湯漬けを食った勢いさえ、もう馬上では冷めきっていた。腹の底が、ずしりと重い。
引き返したい。いますぐ清洲へ帰りたい。帰蝶の顔を見て、温かい寝床にもぐり込んで、この一日をなかったことにしたい。
だが、進むたびに、その清洲が遠ざかっていく。逃げ場が一つ、また一つと、背中の後ろへ消えていった。前に進むほど、俺は自分で自分を、死地の奥へと運んでいた。
***
未明の闇を、わずかな手勢で駆けた。
闇が、怖かった。物心ついてからずっと、暗がりは俺の敵だった。木立の陰、道の曲がり角、そのどれもが刺客を隠しているように見えた。馬の蹄が石を蹴る音にすら、俺の肩は跳ねた。
途中、熱田の神宮に立ち寄った。俺は社の前で、必死に手を合わせた。
頼む。頼みます。どうか生かしてください。死にたくないんです。帰蝶のところへ、無事に帰してください。
神様でも仏様でも、なんでもいい。この際、すがれるものには、なんにでもすがった。武運を、なんて立派なものは願わなかった。ただ、生きて帰りたい。それだけを、額を地にすりつける勢いで祈った。
そう、心の中で祈り続けた。子供が、親にすがるように。
家臣たちは、その俺の姿を見て、こう言った。
「殿は、神慮を恃んでおられる」
「天が味方しておるのじゃ。見よ、あのお背中の揺るがぬことよ」
揺るがぬはずが、ない。
俺の背中は、祈りながら震えていた。ただ、具足のおかげで、それが外からは見えなかっただけだ。
***
熱田を出て、しばらく進んだ頃。空が、にわかにかき曇った。
そして――豪雨が、降ってきた。
横殴りの雨が、叩きつけるように降り注いだ。前を行く馬の尻すら、白く霞んで見えなくなった。足元はぬかるみ、馬の脚が何度も取られた。雨が冷たく首筋を伝った。具足の隙間から染み込んできた。
雷まで鳴った。地を揺るがすその音に、本当なら俺は縮み上がるはずだった。だが、この時ばかりは、違った。それでも、俺は、奇妙な安堵を覚えていた。
この雨なら。俺がどれほど震えていても、雨に紛れて、誰にも気づかれない。冷や汗なのか雨なのか、もう自分でも分からなかった。
雨は、まるで天が、俺の震えを隠してくれているようだった。せめて、それだけがありがたかった。
どれほど進んだだろう。不意に、先駆けの者が、馬を返して駆け戻ってきた。
「申し上げます。今川の本陣……義元の本陣が、すぐ、そこに」
俺の心臓が、跳ねた。血の気が、引いた。指先から、すうっと感覚が失せていった。
すぐそこ。もう、目と鼻の先に、二万五千を率いる大大名がいる。逃げたい。今すぐ馬の頭を返して、雨の中を、来た道を駆け戻りたい。
だが、もう、退けない。退路は、とっくに雨の向こうへ消えていた。
雨は、まるで天が、俺の震えを隠してくれているようだった。そして、その雨の向こうに――今川の本陣が、あった。
「雨が、俺の震えを、隠してくれている」――一歩ごとに逃げ場が消える恐怖に引き込まれたら、【いいね】を! 雨の向こうの本陣へ。見逃さないようブックマークを。




