第4話 逃げ場はなかった
稲生の野で、俺の中の「何か」は、目を覚ましかけて、味方の声で引っ込んだ。あのとき、俺を現実に引き戻してくれる声があった。
だが、桶狭間では。
その声は、どこからも聞こえなかった。
***
豪雨が、不意にやんだ。
降りしきっていた雨が、嘘のように引いていった。視界が、ひらけた。そして、その先に――今川の旗が、無数にひしめいていた。
「かかれッ」
味方の誰かが、叫んだ。
行きたくなかった。足が、震えていた。今すぐ、この場から逃げ出したかった。だが、号令は、かかってしまった。俺の手勢が、雨上がりの斜面を駆け下りていく。
もう、退けない。俺も、行くしかなかった。
不意を突かれた今川勢が、浮き足立った。だが、何しろ向こうは大軍だ。すぐに態勢を立て直しはじめた。
戦は、たちまち乱戦になった。味方と敵が入り乱れ、もみ合った。ぬかるんだ斜面で、人が滑り、転び、また立ち上がって斬り結ぶ。
怒号と、悲鳴と、鉄のぶつかる音が、雨上がりの斜面いっぱいに満ちた。誰が味方で誰が敵かも、もう判じきれない。目の前で、人が倒れる。血が、泥に溶けていく。
俺は、馬を降ろされた。いつの間にか、徒立ちで泥の中にいた。足がもつれて、うまく立てない。
気づけば、俺の周りから味方が減っていた。乱戦に揉まれ、引き離され、散り散りになっていく。
そして、俺の前に、今川の兵が現れた。一人、二人――いや、もっと。
俺は、囲まれていた。
前にも、後ろにも、横にも、刃。刃。刃。その無数の切っ先が、すべて俺一人に向いていた。
稲生のときと、同じだ。いや、もっと悪い。ここには、味方の一隊が囲みを破って突っ込んできてくれる、あの幸運はなかった。みんな乱戦に呑まれて、俺の所在さえ、誰も知らない。
助けは、来ない。名を呼んでも、この怒号の中では誰の耳にも届かない。俺がここで倒れても、しばらくは誰も気づかないだろう。泥の中の、ただの骸として。
俺は、たった一人で、敵の真ん中に立っていた。
そして、体に、あの異変が戻ってきた。
冷や汗が、全身から噴き出した。具足の下が、ぐっしょりと濡れていった。背中も、胸も、腿も、水を浴びたように。歯の根が合わなくなった。がちがちと鳴った。心臓が暴れた。胸を、内から叩き割らんばかりに。息ができなくなった。吸っても、吸っても、足りない。
そして――視界が、白んだ。
囲む兵の顔が、刃の光が、すべて白く霞んでいった。
ああ、今度こそ、俺は、ここで死ぬんだ。
帰蝶。帰蝶。約束したのに。田舎で、畑を耕して、二人で静かに暮らそうと。あの夢は、ここで泥に沈むのか。
もう、立っていられない。膝が、崩れる。
気が遠くなりかけた。意識が、すうっと底へ沈んでいく。この暗い底の先に、何があるのかも、わからないまま。
俺は、心のどこかで待っていた。あの声を。「殿、ご無事か」と、俺を呼び戻してくれる、味方の声を。
だが。
待っても、待っても、その声は。
来なかった。
あのとき、俺を現実に引き戻してくれる声は、どこからも聞こえなかった。
だから――俺の中のあれが、完全に目を覚ました。
我に返らせてくれる声が、今度はどこからも来ない――ぞくりとしたら、【びっくり】を! 「あれ」が完全に目を覚ます瞬間を見届けに、ぜひブックマークへ。




