第1話 二万五千
俺はその日、人生で初めて、本気で、もう死ぬんだと覚悟した。
これまでも何度も死を思った。暗殺を恐れて眠れぬ夜も、弟と刃を交えた稲生の野も。だがあれは、まだ生きる目があった。今度のは違った。どこをどう数えても、生き残る目が一つも見当たらなかった。
駿河の今川義元。海道一の弓取りと謳われた東国一の大大名が、ついに尾張へ兵を向けてきた。
その数、二万五千。
俺が家中の兵をかき集めて、ようやく二千か三千。十分の一にも満たない。
東の境では、味方の城が一つ、また一つと今川の大波に呑まれていった。鳴海も大高も切り離され、孤立していく。報せが届くたびに、俺の胃はきりきりと痛んだ。
飯が喉を通らなかった。夜も、目を閉じれば瞼の裏に、押し寄せる無数の旗と、地を埋める甲冑の群れが浮かんだ。その一つひとつが、俺の首を狙う切っ先に見えた。
二万五千。頭の中で、その数を数えようとしては、途中で怖くなってやめた。とても数えきれない。数えきれないほどの人間が、俺を殺すためだけに、こちらへ向かって歩いてくる。そう思うと、それだけで手足の先が冷たくなった。
***
清洲の評定の間は、重く、沈んでいた。
「籠城より、ほかに道はございますまい」
「城を枕に、討死の覚悟を」
家臣たちが、口々に言った。
俺は上座で、ただ押し黙っていた。
本音を言えば、籠城も嫌だった。出撃など、もっと嫌だった。
籠城すれば、囲まれて、じわじわと嬲り殺しにされる。出撃すれば、十倍の敵の中へ、自分から飛び込むことになる。どちらも考えただけで、胃の腑がねじれた。
想像してしまう。城の壁がじりじりと詰められ、逃げ場を失い、最後は火をかけられる。あるいは、ひらけた野で四方から刃を突き立てられる。どう転んでも、その先にあるのは、痛くて、冷たくて、暗いものだった。
逃げたかった。できることなら、いますぐ馬に乗って、帰蝶を連れて、誰も知らない田舎の村まで駆けていって、畑でも耕して、静かに暮らしたかった。
朝に起きて、土をいじって、夜は帰蝶と二人で飯を食う。それだけでいい。天下なんか、いらない。それが俺の、たった一つの願いだった。
だが、その願いほどいまの俺から遠いものはなかった。
だが、逃げ場はなかった。
東は今川の大軍。退けば、織田の家は終わる。帰蝶も家臣も領民も、みんな巻き込んで終わる。どっちを向いても、死の影しか見えない。
俺は震えていた。膝の上で、握りしめた拳が小刻みに揺れていた。爪が手のひらに食い込むほど、強く握った。そうしてでもいないと、全身の震えが抑えられなかった。
声を出せば、その震えが声にも出てしまいそうで。だから、ただ黙っていた。口を開けば、「怖い」「逃げたい」「助けてくれ」――そんな情けない言葉が、堰を切って溢れ出しそうだった。
その俺の沈黙を、家臣たちは、またしても勝手に読み解いた。
「殿は、何かお考えがある」
「この期に及んで、あの落ち着き。やはり、底が知れぬお方じゃ」
違う。
考えなんか、何もない。ただ怖くて、声も出せずに固まっていただけだ。
俺は評定の間で、ただ一人震えていた。誰にも気づかれぬように。
兵力は十分の一、逃げ場もない――評定の間でただ一人震える絶望に息を呑んだら、【びっくり】か【いいね】を! 勝ち目のない一戦の行方を、ブックマークで見届けてください。




