第6話 非情の魔王
弟を討ったあと。俺は、しばらく、誰とも口をきけなかった。
だが、世間は――そんな俺の沈黙すら、勝手に読み解いて、とんでもない物語に仕立て上げた。いつものことだ。だが、今度のは、これまでで、いちばん、俺を凍りつかせた。
「殿は、ついに、実の弟君すら、お手にかけられた」
「病と偽って、清洲へ呼び寄せ、欺いて討たれたという。なんという、冷徹さよ」
「肉親の情すら断ち切るお方じゃ。我ら家臣など、害になると見れば、いつ斬られるか、分かったものではない」
「逆らえば、弟であろうと、容赦はない。……従うより、ほかに、道はない」
家中は、しんと静まり返った。そして、その静けさのなかで、織田の家は――皮肉にも、一つにまとまっていった。弟を討ってから、家臣たちは、誰一人、俺に逆らわなくなった。林秀貞も、頭を垂れた。柴田勝家は、もとより、俺の側についた。家中の、うつけと侮る声は、ぴたりと止んだ。
「肉親すら容赦せぬ、非情のお方」
その評判が、俺を、戦国の当主として押し上げていった。俺が、一番なりたくなかった姿に。
違う。
何度でも言わせてくれ。
俺は、非情なんかじゃない。弟を欺いて討ったのは、冷徹だからじゃない。正面から、弟の顔を見て、刃を向ける勇気がなかったからだ。臆病すぎて、まともに対峙できなかったからだ。
肉親の情を断ち切ったんじゃない。断ち切れなくて、いまも、夜ごと、亡骸の前で泣いた、あの夜を夢に見て、うなされている。俺は、誰より、情に囚われている。誰より、弟を殺したことを悔やんでいる。
なのに、それが――非情の証だと、恐れられる。
俺の弱さは、いつだって、強さに。俺の優しさは、いつだって、冷酷さに。ねじれて、伝わっていく。
その夜。
俺は、帰蝶の前で、はじめて、稲生の野での、あのことを口にした。ずっと、誰にも言えなかったことを。
「帰蝶。俺は、稲生で……妙なことが、あった」
「妙な、こと」
「うむ。あのとき、囲まれて、もう死ぬと思った、その瞬間に……俺の中で、何かが、目を覚ましかけたんだ」
俺は、自分の腕を見下ろした。あのとき、見たこともない力が満ちていった、この腕を。
「恐怖が、すっと消えた。代わりに、頭の奥で、声がした。殺せ、と。目の前のものを、全部、薙ぎ倒して、生き延びろ、と。体が、勝手に動こうとした。あれは……あれは、俺じゃなかった。俺の中に、俺じゃない、何かが、いる」
俺は、震える声で続けた。
「怖いんだ、帰蝶。敵が怖いんじゃない。俺自身が、怖い。俺の中に、得体の知れない何かが眠っている。あのとき、味方の声がなければ、あれは、完全に目を覚ましていた。そうしたら、俺は……俺は、いったい、何をしていたのか」
帰蝶は、しばらく黙っていた。そして、俺の震える手を、両手で包んだ。
「殿。それが、何であろうと」
静かな、声だった。
「それは、お前を生かそうとしたのじゃ。お前が、死にたくない、生きて帰りたいと、心の底で願ったから。お前の体が、お前を守ろうとしたのじゃ。化け物では、ない」
「だが――」
「怖いのは、分かる。じゃが、忘れるな。我に返ったあと、お前は、また、泣いておったのであろう。弟の前で。声を殺して。……化け物は、泣かぬ。お前は、まだ、お前のままじゃ」
俺は、帰蝶の手の温もりに、すがった。人が怖いはずの俺が、この手だけは離せなかった。それでも。俺の中で目を覚ましかけた、あの何かは。消えては、いなかった。ただ、また、眠りについただけだ。深い、底の方で。次に、俺が、死の淵に立つ日を、待って。
俺は、それが、いつか、本当に牙を剥く日が来るのを――心の底から恐れていた。
***
俺の中で目を覚ましかけた何かは、まだ、眠っている。
だが、それが牙を剥く日は。俺が思っていたより、ずっと、近かった。
その年の暮れから、不穏な噂が、東から流れてきた。駿河の、今川義元。海道一の弓取りと謳われた、あの大大名が、尾張を呑み込もうとしているという。
その兵、二万五千。俺のすべてを合わせても、その十分の一にも満たぬ大軍が。もう、尾張のすぐそこまで、その影を伸ばしてきていた。
「殺したくて殺したんじゃない」――非情の魔王と誤訳される裏で、帰蝶にだけ恐怖を打ち明ける夜にじんときたら、【泣ける】か【いいね】を! 眠る「何か」が牙を剥く章が、すぐそこ。ブックマークで見逃さずに。




