第5話 二度目の刃
人を、一度赦すのは、優しさかもしれない。だが、二度目は違う。二度目に赦せば、今度は、自分が殺される。守るべき者が、殺される。
俺は、それを――いちばん知りたくなかったことを、知ってしまった。
稲生から、一年が過ぎた。弟は、表向き、おとなしくしていた。俺も、何事もなかったように振る舞った。これで、終わった。俺は、そう信じたかった。
だが。
ある日、柴田勝家が、ひそかに俺のもとを訪ねてきた。稲生で俺に刃を向け、母上の取りなしで命を救われた、あの猛将が。
勝家は、俺の前に片膝をつき、声を潜めて言った。
「殿。申し上げにくきことながら……勘十郎様が、ふたたび、謀反をお企てにございます」
俺は、息が止まった。
「龍泉寺のあたりに、城を築こうとなさっておられる。ふたたび、兵を集め……此度こそ、殿の御首を、と」
勝家は、苦しげに続けた。
『一度はお味方した、この勝家が申すのも、面目なきこと。なれど、此度の企て、捨て置けば、織田の家そのものが、割れまする。殿。どうか、ご決断を』
俺は、書状を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
二度目だ。弟は、また、刃を向けてきた。母上があれほど頭を下げて救った命で。俺が殺したくないと踏みとどまった、その温情を踏みにじって。赦せば、いい。三度目も、四度目も、赦せば。俺の優しさが本物なら、そうすべきなのかもしれない。
だが――もし、次に、弟が勝ったら。
俺は、死ぬ。
そして、俺だけでは済まない。帰蝶も、殺される。俺を信じて従ってくれた家臣も、皆、殺される。俺の、たった一つの「殺したくない」を貫くために。たくさんの、殺したくない人たちを死なせることになる。
俺は、震える手で顔を覆った。優しさが、優しさでなくなる瞬間が、ある。一人を殺したくないという心が、十人を、百人を、死なせることが、ある。俺は、初めて、その、戦国の残酷な論理の前に立たされていた。
そして、俺は――選ばねばならなかった。
弟、一人か。それとも、帰蝶を含む、すべてか。
俺は、夜通し悩んだ。何度も厠に立った。涙も出た。
そして、夜明け前。
俺は、決めた。
弟を、討つ。
これ以上、母上に迷惑はかけられない。これ以上、帰蝶を危うくはできない。
俺は、病と偽った。
「上総介、重き病にて、床に伏せり」
そう、末森へ伝えさせた。兄が、危篤だ。見舞いに来い、と。
弟は――来た。兄の見舞いに、と。なんの疑いもなく。俺が、まさか、自分を討とうとは思わずに。
清洲の城に、弟が入った。俺は、奥の、北の櫓で待っていた。足音が、近づいてくる。弟の、足音が。俺は、もう、何度も、何度も、自分に言い聞かせた。やらねばならない。やらねば、皆が死ぬ。これは、当主の務めだ。
それでも。足音が近づくたびに、俺の手は震え、冷や汗が噴き出した。
斬る瞬間のことを、俺は、語りたくない。ただ、これだけは言わせてほしい。
俺は、弟の顔を見られなかった。家臣に命じた。俺自身は、その場にいなかった。だが、それは、卑怯だったのではない。俺には、弟の、最期の顔を、正面から見る勇気が――どうしても、なかったのだ。
斬れと命じる声は、自分でも驚くほど、低く、静かだったという。だが、その声を発した俺の手は。
机の下で、子供のように握りしめられ、白くなるほど震えていた。
弟が事切れたと、報せが来たとき。俺は、一人で、亡骸のある部屋へ入った。誰も、入れなかった。
そして、弟の、もう動かない顔を、見た。整った、母上似の顔。家中の皆が好いた、あの顔。聡明で、礼儀正しく、母上に愛された、弟。
俺が、殺した。
「……勘十郎」
俺は、弟の傍らに膝をついた。
「すまん。すまん。俺は……お前を、殺したくなかった。本当だ。一度は、赦した。二度目も、できることなら赦したかった。だが、できなかった。俺は、弱くて、臆病で……お前を生かしたまま、皆を守る知恵がなかった」
涙が、止まらなかった。
「お前が、羨ましかった。母上に、愛されて。家臣に、好かれて。俺は、ずっと、お前みたいになりたかった。なのに、俺は……俺は、その弟を、この手で」
俺は、とうとう、血を分けた弟まで殺した。父の盾を失い、守役を死なせ、そして今度は、弟を。俺の周りから、人が、一人ずつ消えていく。俺が、生き延びるたびに。
これが、当主の強さだというのなら。俺は、こんな強さなんて欲しくなかった。
俺は、弟の亡骸の前で。声を殺して、泣いた。人前で号泣すれば、また、家中に変に伝わる。だから、このときばかりは、声を噛み殺した。奥歯を食いしばり、肩を震わせ、ただ、涙だけを流した。誰にも、見られぬように。
戦国一の臆病者が、自らの手で殺した弟の前で、声もなく泣いていた。
その姿を見た者は、一人もいなかった。
一度赦した弟を、二度目はもう庇いきれない――誰にも見られぬよう声を殺して泣く姿に、静かに涙したら、どうか【泣ける】を。この業を抱えていく続きを、ブックマークで。




