第4話 母の願い
勝ったのに。
俺は、ちっとも嬉しくなかった。嬉しくないどころか、勝ったあとのほうが、よほど苦しかった。
なぜなら――勝ったということは、これから、敗者をどうするか決めねばならない、ということだったから。
稲生で、俺は勝った。弟・信勝も、林秀貞も、柴田勝家も、末森の城へ逃げ込んだ。
家臣たちは、口々に言った。
「殿。この機に、末森を攻め、勘十郎様を、討つべきにございます」
「謀反人を、生かしておいては、後の禍根となりまする」
「柴田、林の首も、刎ねねば、示しがつきませぬ」
正論だった。戦国の、当たり前の論理だった。謀反を起こした者は、討つ。それが、当主というものだ。
だが、俺は。
弟を殺したくなかった。殺さずに済むなら、殺したくない。たとえ、刃を向けてきた相手でも。たとえ、それが戦国の習いに反していても。俺は、もう、人を殺すのはたくさんだった。政秀の死から、まだ間もない。あの号泣の夜の痛みが、骨に残っていた。
これ以上、誰かを殺したくない。ましてや、相手は、血を分けた弟だ。
「……どうすれば、いいんだ」
俺は、一人、頭を抱えた。殺せば、楽になる。家中は、まとまる。だが、俺の心がもたない。殺さなければ、また、いつか刃を向けられるかもしれない。だが、それでも――
俺が迷っていた、そのときだった。母上が、俺の前に現れた。
土田御前。俺をずっと疎んできた、母。その母上が、俺の前で。
頭を、下げた。
「上総介どの」
俺をそう呼ぶ母上の声を、俺は、初めて聞いた気がした。いつもは、目も合わせてくれなかったのに。
「勘十郎の命だけは。柴田、林の命だけは。どうか、お助けくだされ。この通り、じゃ」
母上は、畳に両手をつき。俺に向かって、深々と頭を下げた。
俺は。
その姿を見て、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。母上が、頭を下げている。あの誇り高い母上が。俺なんかに。
――ああ。
母上が俺のために頭を下げてくれたことは、一度もなかった。うつけと笑われたときも。家中に見限られかけたときも。母上は、ただ、冷たい目で俺を通り過ぎていった。
なのに、いま、母上は頭を下げている。弟のために。俺のためではなく、弟のために。
それでも――それでも、俺は嬉しかった。母上が、俺に何かを頼んでくれた。それが、たとえ弟可愛さゆえだったとしても。生まれて初めて、母上が、俺を頼ってくれた。
そして何より。これで、弟を殺さずに済む。母上が頼んでくれたなら。母上の願い、という大義名分があれば。家臣たちも、俺が弟を生かすことを許してくれる。俺は、弟を殺さずに済むのだ。
「……承知、いたしました」
俺は、母上に、頷いた。
「母上が、そうおっしゃるなら。勘十郎の命、お助けいたします。柴田も、林も、不問といたしましょう」
母上は、はっと顔を上げた。その目に、ほんの一瞬、信じられぬ、という色がよぎった。あのうつけの兄が、弟を赦すのか、と。
俺は、それ以上、何も言わなかった。本当は、こう言いたかった。
母上。俺は、ただ、弟を殺したくないだけです。母上に頼まれたからじゃない。俺は、もう、誰も殺したくないんです。――と。
だが、言えなかった。言えば、また、声が震えてしまう。涙が、こぼれてしまう。だから、俺は、ただ、短く頷いただけだった。その「短さ」が、また、ねじ曲がって伝わった。
「殿は、謀反を起こした弟君を、眉一つ動かさず、お赦しになった」
「倍する敵を破り、しかも、勝者の余裕で、敵将すら生かす……なんという、底知れぬ御度量よ」
「いや、あれは、深慮だ。今、弟を討てば、家中が割れる。生かして恩を売り、後々、思うがままに操ろうという、魔王の深いお考えに違いない」
違う。
俺は、ただ、弟を殺したくなかっただけだ。母上の願いを、断れなかっただけだ。度量でも、深慮でもない。優しさと、弱さだ。なのに、皆は、それを、魔王の余裕と読む。
俺は、もう、訂正する気力もなかった。ただ、心の中で、こう願った。
頼む。これで、終わってくれ。
もう、二度と、弟と刃を交えずに済みますように。
***
だが。
俺の、願いは。
叶わなかった。
「母上が、俺のために頭を下げたことは、一度もなかった」――寂しさを噛みしめつつ弟を赦す優しさにじんときたら、【泣ける】か【にこにこ】を! 続きはブックマークで。




