第3話 白む視界
そのとき、俺の中で。
何かが、目を覚ましかけた。
それが何だったのか、いまでも俺には分からない。ただ一つだけ確かなのは――俺は、それを、心の底から恐ろしいと思った。
稲生の野で、戦は始まった。
最初は、俺の方が押されていた。当たり前だ。倍以上の兵に、しかも相手は柴田勝家だ。武勇では、尾張に並ぶ者のいない、あの猛将だ。柴田勢が、こちらの右翼を押し崩していく。味方が、次々と討たれていく。
俺は、馬上で震えていた。
怖い。怖い。怖い。
味方の悲鳴。鉄と鉄のぶつかる音。血の匂い。倒れていく人。それが全部、俺のすぐ近くで起きている。
そして、戦の流れが変わった――いや、悪い方へ転がった。味方が崩れ、気づけば、俺の周りから人が減っていた。
敵兵が、俺を囲みはじめた。
「織田上総介は、あれぞ」
「大将首じゃ。討ち取れ」
俺を囲む輪が、じりじりと狭まる。逃げ場は、なかった。前にも、後ろにも、横にも、刃。刃。刃。その無数の刃の切っ先が、すべて、俺一人に向いていた。
そこから先のことを、俺は、はっきりとは覚えていない。覚えているのは、体の異変だ。
冷や汗が、全身から噴き出した。鎧の下が、ぐっしょりと濡れていくのが分かった。背中も、胸も、腿も、まるで水を浴びたように。
歯の根が、合わなくなった。がちがちと鳴った。
心臓が、暴れた。胸を、内側から叩き割らんばかりに。
息が、できなくなった。吸っても、吸っても、空気が足りない。
そして――視界が、白んだ。囲む敵兵の顔が、刃の光が、空の色が、すべて白く霞んでいった。
ああ、俺は、ここで死ぬんだ。
気が、遠くなりかけた。
だが。
その、意識が消えかけたぎりぎりの底で。
何かが、ぐらりと動いた。俺の、内側で。
恐怖が――すっと、消えた。あれほど俺を支配していた怖さが、嘘のように引いていった。
代わりに、頭のずっと奥の方で、声が聞こえた気がした。俺の声ではない、何かの声が。
『殺せ。目の前のものを、全部、薙ぎ倒して、生き延びろ』
体が、勝手に動こうとした。握っていた槍を、自分の意思とは別のところで構え直そうとした。腕に、見たこともない力が満ちていくのが分かった。鍛え抜いたこの体が、俺という人間を置き去りにして、独りでに目を覚まそうと――
「殿ーッ! ご無事か!」
味方の、叫び声。横手から、味方の一隊が、敵の囲みを破って突っ込んできた。
その声で、俺は。
我に返った。
すっと、白んでいた視界に色が戻った。動こうとしていた体が、こわばったまま止まった。頭の奥の、あの声も消えた。
俺は、槍を握ったまま、馬の上で、激しく肩で息をしていた。全身、汗まみれで。歯の根は、まだ震えていて。
そして、生きていた。
その後の戦は、無我夢中だった。味方が囲みを破ってくれたのを潮に、俺は、必死で槍を振るった。記憶は、断片だ。怖くて、無我夢中で、ただ、目の前の刃を払い続けた。気づけば、敵は退いていた。林通具を討ち取ったという。林秀貞は、逃げた。柴田勢も、崩れて引いていった。
俺の、勝ちだった。倍する敵に、寡兵で勝った。家臣たちは、雄叫びを上げていた。
だが、俺は。
馬の上で、ただ、呆然としていた。
勝ったことよりも。
俺の頭を占めていたのは、あの一瞬のことだった。
あのとき。恐怖が極限に達した、あの、死にかけた一瞬。俺の中で、何かが目を覚ましかけた。恐怖を、根こそぎ消し去って。俺という人間を、押しのけて。ただ、殺して生き延びろと命じる、何か。
あれは、いったい、何だったのか。俺の中に、俺の知らない、得体の知れない何かが眠っている。そして、それは――味方の声がなければ、あのまま、完全に目を覚ましていた。
俺は、ぞっとした。
勝ったというのに。生き延びたというのに。俺は、自分自身が、何よりも恐ろしくてたまらなかった。
***
あのとき、俺の中で目を覚ましかけた何かは、いったい、何だったのか。
俺は、それを知るのが怖かった。知ってしまえば、もう後戻りができない気がしたから。
恐怖の極限で、自分の中の「何か」が目を覚ましかける――背筋がゾクッとしたら、【びっくり】を! この得体の知れない予感の正体を追いに、ぜひブックマークへ。




