第2話 稲生へ
俺は、戦の前の夜が一番嫌いだった。
明日、死ぬかもしれない。明日、人を殺すかもしれない。その夜は、決まって腹が痛くなる。何度も厠に立ち、眠れぬまま、暗い天井を睨んでいる。
そして今度の戦は、これまでのどれよりも嫌だった。なにせ、相手は弟だ。
弘治二年。八月。
弟・信勝の方が、ついに軍を起こした。林秀貞、林通具の兄弟。そして、柴田勝家。末森と那古野の兵を合わせ、こちらへ攻め寄せてくるという。
その数、千七百あまり。対して、俺の手勢は――せいぜい、七百。
俺は、報告を聞いて、目の前が暗くなった。倍以上だ。倍以上の兵が、しかも、柴田勝家という家中一の猛将に率いられて、向かってくる。
勝てるわけが、ない。
「殿、いかがなさいます」
家臣たちが、俺の顔色を窺っている。
俺は、本当は、こう叫びたかった。
――いかがも何も、逃げたい。籠城したい。誰か母上に頼んで、止めてもらえないか。なんなら、家督なんて弟にくれてやる。
だが。
逃げれば、終わりだ。ここで弱気を見せれば、家臣は、雪崩を打って弟の方へ流れる。そうなれば、俺も帰蝶も、生かしてはもらえない。逃げ場は、なかった。
俺は、ありったけの力で、震える声を喉の奥に押し込めた。そして、できるだけ短く、低く言った。
「出る」
それだけ、言った。長く喋れば、声が震えるのがばれてしまうからだ。
ところが。
家臣たちは、その一言を、こう受け取った。
「……殿。倍する敵を前に、まさか、討って出られると」
「お見事な、ご決断。さすがは、上総介様」
「あの寡兵で、柴田殿に正面から当たろうという肝の太さ。我ら、ついていきまする」
違う。
違うんだ。
俺は、肝が太いんじゃない。ただ、長く喋ると声が震えるから、短く言っただけだ。籠城する勇気も、逃げる算段もつかなくて、消去法で「出る」しかなかっただけだ。なのに、皆の目が、きらきらと輝いている。死を恐れぬ大将の胆力に、痺れている。
俺は、内心で頭を抱えた。
頼むから、その輝いた目で、俺の腹の中を覗かないでくれ。今、ぐるぐると煮えくり返っているのだから。
出陣の前、俺は、ひとり、帰蝶のもとへ寄った。誰にも見せられぬ顔を、この女にだけは見せられた。
「帰蝶」
「殿」
「俺は、明日、弟と戦う」
言葉にすると、また、現実が重くのしかかってきた。
「勝っても、負けても、地獄だ。負ければ、俺が死ぬ。勝てば――俺が、弟を殺すかもしれん。どっちにしろ、誰かが死ぬ。なんで、こんなことになったんだろうな」
帰蝶は、俺の手を取った。葬儀の日も、政秀の死の夜も、この手だけが、刃ではなかった。
「殿。お前は、斬りたくて斬るのではない」
「……ああ」
「それを忘れぬ限り、お前は、お前のままじゃ。どれほど人に何と呼ばれようとも」
俺は、その手を、しばらく握っていた。
人肌の温もりだけが、明日への、たった一つの薬だった。
***
夜が明けた。
俺は、鎧を着け、馬に乗った。七百の兵が、俺の後ろに続く。
向かう先は、稲生の野。そこで俺は、生まれて初めて、味方だったはずの旗と向き合うことになる。
織田の旗が、二つ。同じ木瓜の紋を掲げた兄と弟の軍が、尾張の野で殺し合う。これほど、ばかげた戦が、あるだろうか。
俺は、込み上げる吐き気を、奥歯で噛み殺した。
「弟を、斬りたくない」と帰蝶にだけ零す本音が、家臣には胆力と誤読される――そのすれ違いに引き込まれたら、【いいね】を! 決戦の続き、見逃さないようブックマークを。




