第1話 弟という名の影
俺は、世界で一番、弟が怖かった。
外の敵なら、まだいい。今川だろうと斎藤だろうと、敵だと分かっている相手は、怖いなりに覚悟ができる。
だが、身内は違う。味方の顔をして、すぐ隣にいて、いつこちらに刃を向けるか分からない。
その弟が――俺は、たまらなく怖かった。
弟の名は、織田信勝という。俺とは違って、出来た男だった。行儀がよく、礼を弁え、家臣にも優しい。母上に似た整った顔立ちで、家中の誰もが、この弟を好いていた。
「上総介様より、勘十郎様のほうが、よほどお世継ぎにふさわしい」
そう言う者が、年々増えていった。
うつけと呼ばれ、餅を立ち食いし、相撲ばかり取っている兄。きちんと武家らしく振る舞う、聡明な弟。家中がどちらを選ぶか――答えは、火を見るより明らかだった。
そして、その筆頭が母上だった。
土田御前。俺と信勝を産んだ、同じ母。だが、母上が慈しんだのは、弟のほうだけだった。物心ついた頃から、母上の目は、いつも俺を通り過ぎていった。俺を見るときの、あの困ったような、少し冷たい目。弟を見るときの、蕩けるような優しい目。
同じ腹から生まれて、なぜこうも違うのか。
幼い頃は、俺なりに母上に好かれようとした。だが、何をしても駄目だった。やがて俺は、母上に近づくのをやめた。
人が怖い俺にとって、本当は、母の温もりこそ、一番欲しかったものだったのに。
「兄上は、上総介の器ではない」
母上は、はっきりとそう言ったという。人づてに、俺の耳にも届いた。
「あのうつけに織田を任せれば、家は滅びる。勘十郎こそ、亡き殿の跡を継ぐべき子じゃ」
俺は、それを聞いても、不思議と母上を恨めなかった。だって、その通りだ、と思ったから。
俺は、うつけだ。怖がりで、震えてばかりの出来損ないだ。母上の言うことは、何一つ間違っていない。
ただ、少しだけ。ほんの、少しだけ。
一度でいいから、母上に笑いかけてほしかった、と。そう思う自分が、いた。
弟を恨む気には、なれなかった。むしろ、羨ましかった。母に愛され、家臣に好かれ、まっとうに生きられる、あの弟が。
できることなら、俺は、弟と刃を交えたくなどなかった。
「信勝が織田を継ぎたいなら、継げばいい」
俺は、本気でそう思っていた。天下も家督も、俺は欲しくなかった。弟が欲しいなら、くれてやってもいい。それで、誰も死なずに済むなら。
だが、世の中は、そう甘くはできていなかった。
弟の背後には、林秀貞がいた。柴田勝家がいた。林秀貞は、亡き父の代からの織田家の宿老。柴田勝家は、家中きっての猛将だ。その二人が、弟を担いで動きはじめた。
末森の城に、ひそかに兵が集まっている。武具の手配が慌ただしい。領地の境で、こちらの城を無断で削り取る動きがある。家臣たちが、青い顔で報せてくる。俺は、その一つ一つに、胃をきりきりと痛めた。
来る。
来てしまう。
俺が一番恐れていた日が。血を分けた弟と、殺し合わねばならない日が。
「殿」
帰蝶が、俺の様子を見かねて声をかけた。
「お顔の色が、ようございませぬ」
「……ああ」
俺は、力なく笑った。
「帰蝶。俺は、つくづく戦国に向いていない。敵が攻めてくると、夜も眠れず、腹を下す。味方が裏切ると、もっと眠れん。そして今度は――弟だ。よりにもよって、弟と戦えと、世間が言う」
帰蝶は、何も言わず、俺の隣に座った。
「俺は、弟を斬りたくない」
声に出すと、その願いの、どうしようもない無力さが、身に染みた。
斬りたくない。だが、斬らねば、斬られる。それが、戦国という世だった。
***
そして。
俺は、精一杯祈った。
しかし、祈りはむなしく、弟は、ついに兵を挙げた。
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