第5話 諫死
その報せは、朝、まだ薄暗いうちに届いた。俺は、転がるように政秀の屋敷へ駆けた。人が怖いはずの俺が、その朝だけは、人混みも、背後の闇も、何も目に入らなかった。ただ、間に合ってくれと、それだけを念じていた。
間に合わなかった。
政秀は、すでに事切れていた。己の腹を、己の手で、切って。俺を、諫めるために。
枕元に、書状が残されていた。震える手で、俺はそれを開いた。老いた、けれど一字一字、力を込めて記された筆跡で、こう、したためてあった。
『殿。老臣、最後のお願いにござります。どうか、うつけの誹りを、お返上くだされ。あなた様が、亡き殿に勝る当主となられること――それのみが、政秀、長年の願いにござりました。この老いた命に代えても、殿の目を覚まさせ申したく』
俺は。書状を握りしめたまま、動けなかった。
ああ。ああ、爺。お前は、それで、死んだのか。
俺が、うつけを演じ続けたから。俺が、お前にまで、本当のことを言わなかったから。打ち明けるのが怖くて、見限られるのが怖くて、ただ、下がれ、と突き放し続けたから。
お前は、俺の目を覚まさせるために、たった一つの命を使い果たしたのか。俺なんかの、ために。
俺は、知っていたのだ。うつけの演技が、ただの演技だと。理由のある、芝居だと。だから、心のどこかで、高をくくっていた。皆が騙されても、それは、俺の計算のうちだと。
なのに。
そのうつけを、本気で案じてくれた人が、いた。うつけの行く末を、本気で憂えてくれた人が、いた。うつけのために、本気で、命を懸けてくれた人が。
政秀は、ただ騙されていたのではなかった。うつけと信じて、なお――いや、うつけと信じたからこそ、この老人は、俺の身に、心底から心を砕いてくれていた。
悔やむべきは、そこだ。俺を、本気で想ってくれた、たった一人のその人にすら、俺は、最後まで、本当のことを言えなかった。
俺が、軽々しく被っていた「うつけ」の面が、この優しい老人を、死に追いやった。
人を、斬ったことは、まだ、なかった。刃で、誰かの命を、奪ったことは。
なのに、俺は、いま、確かに、一人の人間を殺していた。
刀ではなく。俺の、臆病さで。俺の、保身で。俺が、本当のことを言う勇気を持たなかった、そのことで。
「自分のせいで、人が、死ぬ」
その重さを、俺は、生まれて初めて知った。それは、想像していた、どんな恐怖よりも、重く、冷たく、そして――痛かった。
俺は、政秀の、もう温もりの失せた手を取った。
葬儀の日、帰蝶の手だけが、刃でなかった。いま、この手も、もう、刃ではない。俺を害することは、永遠に、ない。なぜなら、俺が殺したからだ。
「……爺」
声が、震えた。
「爺。すまん。すまん、俺は……俺は、お前にだけは、言うべきだったんだ。俺は、うつけなんかじゃないと。怖かっただけなんだと。お前を信じればよかったんだ。なのに、俺は」
言葉が、続かなかった。
そして、俺は。人前も、はばからず。当主としての見栄も、うつけの面も、何もかも、かなぐり捨てて。
声を上げて、泣いた。
子供のように。わあわあと、みっともなく、しゃくり上げて。
戦国一の臆病者が、たった一人の老臣の死に、その身も世もなく泣き崩れた。
それが、俺の、生まれて初めての、本物の喪失だった。
「自分のせいで人が死んだ」――生まれて初めて声を上げて泣いた夜に、静かに涙がにじんだら、どうか【泣ける】を。この痛みを抱えていく物語を、ブックマークで一緒に。




