第4話 ただ一人、案じる人
抹香の一件で、俺の評判は地に落ちた。いや、もともと地に落ちていたのだから、正しくは、地の底をさらに掘り進んだというべきか。
「織田家は、もう終わりだ」
「あんな大うつけが当主では、家中はばらばらになる」
そんな声が、もう隠そうともされずに、城のあちこちで囁かれた。
家臣たちは、一人、また一人と、俺から目を逸らしていった。
そんな中で、ただ一人。俺を見限らない人が、いた。
平手政秀。
俺が物心つく前から、守役として仕えてくれた老臣だ。
「殿」
その日も、政秀は、俺の前に白髪頭を下げて座っていた。
「またしても、巷では、よからぬ噂が。葬儀の場での、あの御振る舞い……老臣、心を痛めております」
来た。政秀の、小言だ。
この爺は、暇さえあれば、俺の前に座って、小言を言う。異装をやめろ、立ち食いをやめろ、相撲ばかり取るな、もっと当主らしくしろ、と。正直、うっとうしい。
俺の奇行には、ちゃんと理由がある。人が怖いから、女が怖いから、暗殺が怖いから、わざと「うつけ」を演じて、人を遠ざけているのだ。だが、それを、この爺に言えるはずもない。
「殿。お願いでございます。どうか、人並みの当主に。亡き殿が、どれほどあなた様の行く末を案じておられたか」
「……分かっておる。下がれ」
俺は、いつものように、突き放した。
政秀は、悲しげに、もう一度頭を下げて、退がっていった。
だが。
戸が閉まったあと、俺は、ひとつ、息を吐いた。うっとうしい。確かに、うっとうしい。
けれど。
考えてみれば、おかしな話だ。俺を本気で叱る者など、もう、城にはいないのだ。皆、見限った。どうせ何を言っても無駄だと、匙を投げた。
なのに、この爺だけは、いまだに俺の前に座る。無駄だと分かっていて、なお、座る。
それは。
それは、たぶん、この爺だけが、まだ、俺を諦めていないからだ。
***
その夜、俺は、帰蝶にぽつりと零した。
「政秀の爺だけは、俺を諦めん」
帰蝶は、繕い物の手を止めて、俺を見た。
「皆、俺を見限った。当然だ。俺は、うつけだからな。だが、あの爺だけは、いまだに俺を叱りに来る。……うっとうしい。うっとうしいが」
俺は、膝を抱えた。
「あの爺だけは、俺の味方なんだと思う。たぶん、城で、ただ一人」
帰蝶は、しばらく、俺を見ていた。
そして、静かに、言った。
「ならば、殿。一度、そのお人に、ほんの少しでも、本当のことをお話しになってはいかがか。あなた様が、うつけを演じているだけだと」
俺は、首を振った。
「……できぬ。怖いのだ。打ち明けて、もし、あの爺にまで、軽蔑されたら。あの爺にまで、見限られたら――俺は、本当に、独りになる」
それが、怖くて。
俺は、政秀にだけは、本当のことを言えないまま、ただ、突き放し続けた。
うっとうしい顔をして、下がれ、と。
味方だと知っているのに。
***
それから、しばらくして。
俺は、ふと、気づいた。近頃、政秀の様子が、おかしい。
小言は、相変わらず言う。だが、その顔が、いつにも増して青い。何か、思い詰めたような影が、差している。廊下ですれ違ったとき、その背が、ひどく小さく見えた。
「爺」
俺は、呼び止めようとした。
だが、政秀は、深々と一礼すると、何も言わず、立ち去っていった。
その後ろ姿が、なぜか、胸に引っかかった。
引っかかったまま。
俺は、それを、ただの気のせいだと思おうとした。
思おうと、したのだ。
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