第3話 抹香
その日、俺は父の位牌に抹香を投げつけた。歴史に「大うつけの極み」として刻まれる、あの奇行を。
だが、真実は、こうだ。
俺は、ただ、怖かっただけなのだ。
位牌の前に、進み出る。香炉が置かれている。その脇に、抹香の盛られた、小さな器。つまんで、額に押しいただき、香炉にくべる。それだけのことだ。子供でもできる。
だが、その「それだけ」が、できなかった。
数百の視線が、背中に突き刺さっている。僧の読経が、耳の奥でぐわんぐわんと歪んで聞こえる。香の煙が、目に染みる。喪服の下は、冷や汗で、もう、ぐっしょりだ。
俺は、抹香に手を伸ばした。その手が、震えていた。
つまもうとする。
指先が、抹香に触れる。
だが、震えのせいで、つまめない。さらさらと、指の間からこぼれていく。
もう一度。
やはり、つまめない。
息が、できなくなってきた。
胸の奥が、ひゅう、と鳴る。吸っても吸っても、空気が入ってこない。視界の端から、白いものが滲んでくる。
まずい。
これは、まずい。
人が、見ている。皆が、見ている。早く、しなければ。早く、抹香を、つまんで――
俺の頭の中は、もう、真っ白だった。
恐怖と、息苦しさと、焦りとで、何が何だか分からなくなっていた。
そして。
俺の手が、勝手に動いた。
つまもう、つまもう、と必死にもがいた手が、痙攣するように跳ねた。
その拍子に。
器ごと、抹香を掴んでしまった。
そして、息ができないまま、視界が白むまま、半ば気を失いかけたまま――俺は、その手を、振り払うように、前へ突き出していた。
ばっ、と。
抹香が、宙に舞った。
父の、位牌へ。
ばらばらと、降りかかった。
時が、止まった。
数百の人間が、一斉に息を呑む音が、聞こえた気がした。
しん、と静まり返った境内に、俺の、はあ、はあ、という荒い息だけが、響いた。
やってしまった。
終わった。
父の葬儀で、位牌に、抹香をぶちまけた。これ以上の不孝が、あるか。これ以上の醜態が、あるか。
俺は、その場に崩れ落ちそうだった。腹を切って詫びろと言われても、文句の言えない、大失態だった。
すまない、父上。すまない。怖かったんだ。ただ、怖かっただけなんだ――
ところが。
凍りついた境内に、やがて、ざわめきが広がりはじめた。
「……今のを、見たか」
「ああ。位牌に、抹香を投げつけられた。葬儀の場で。御父君の、位牌に」
「なんという……やはり、大うつけよ。父君の死を悼む心も、持たぬのか」
そら見ろ。やはり、皆、そう思う。当然だ。
ところが、だ。
その中の一人、年嵩の重臣が、低く、唸るようにこう言ったのだ。
「……いや。待たれよ」
ざわめきが、止んだ。
「うつけが、ただ取り乱したのであれば、あのような大それた真似はできぬ。位牌に抹香を投げつけるなど――父の威光すら恐れぬ、よほどの覚悟がなければ、できることではない」
その重臣は、震える声で続けた。
「あれは……何か、底知れぬものを、内に秘めておられる。我らには、推し量れぬ、何かを。……恐ろしや。恐ろしや」
違う。
違うんだ。
俺は、覚悟なんて、していない。ただ、息ができなくて、怖くて、手が勝手に動いただけだ。父の威光を恐れぬどころか、俺は、誰よりも、父の死に怯えている。
なのに、なぜ、そうなる。俺の極限のパニックが、なぜ、「底知れぬ覚悟」になるのだ。
俺は、ぜいぜいと喘ぎながら、心の中で叫んでいた。
誰一人。
誰一人として、俺が、ただ怖かっただけだとは、思わなかった。
震える手が抹香を撒いてしまった――ただ怖かっただけの大奇行が伝説に化ける瞬間に唸ったら、【びっくり】か【笑える】を! 誰も本当の理由を知らない。続きはブックマークで。




